震災を経てコンテストに挑みアジアNo.1へ 逆境の連続を乗り越え続けた唯一無二の道 SYUK kazuのびよう道
東日本大震災がもたらした人生の転機

そんな矢先、2011年に東日本大震災が起き、実家が被災しました。家族を支えるために稼がねばならない状況になり、サロンを辞めざるを得ませんでした。夢を追って表参道に立っていた自分にとって、大きな転機でした。
その後、知り合いのツテで練馬のサロンに移り、スタイリストとして働き始めました。住まいは六畳一間で被災した家族2人と同居です。地元のお客さまに寄り添う環境はやりがいもありましたが、「自分はこのままでいいのか」と何度も悩みました。都心のトップサロンでの経験と、地域密着型サロンの当たり前の基準とのギャップに戸惑い、存在意義を見失いかけることもありました。
そこで郊外からでも道を拓くための活路を求め、コンテストにチャレンジしはじめました。地域サロンから頂点に立つ美容師が生まれれば、何かが変わるかもしれない。もともとコンテストはそこまで好きではありませんでしたが、一度決めたらやり遂げる性格です。自分を試す場として挑戦を続けました。
2017年にアジアNo.1を獲得し人生が変わった

2015年に初めて大きなコンテストに出場し、2017年にはアジアNo.1を決める舞台へ。「これを取れたら人生が変わる」と思い挑んだ結果、グランプリに。
アジアNo.1の称号を得た瞬間、熱いものがこみ上げてきました。そこから人生は大きく動き出し、仕事が一気に増え、全国からセミナーや審査員の依頼が舞い込みました。悩み続けた自分が、数年で「伝える側」になっていたのです。練馬での葛藤がなければ、この挑戦もなかった。環境のギャップがあったからこそ、「挑戦しなければ道は拓けない」と腹を括れたのだと思います。
アジアNo.1の次に自然と浮かんだのはJHA(ジャパン・ヘアドレッシング・アワーズ)でした。全国の美容師が憧れる舞台で結果を残すことは大きな前進になる。そう考え、僕は作品づくりにのめり込みました。スクールに通い、何百万円も投じ、毎月のように作品を撮影。寝ても覚めても作品のことばかり考え、限界まで追い込みました。

迎えたJHAの大賞部門、結果は準グランプリ。これだけやって「まだ届かないのか」と、あの悔しさは今でも忘れられません。
ただ、限界まで挑戦する中で気づいたのは、最後に残るのは「自分らしさ」だということ。どんなに足掻いても、作品に表れるのは自分の本質でした。
周囲から「最近の作品、kazuらしいね」と言われるようになり、「これが自分の色なのか」と受け入れられるようになった。下積み時代に積み重ねてきた徹底した基礎の上に立つ構成力や、強さと繊細さを両立させるデザインが僕の「らしさ」だと分析しています。
だから、よくどうしたらコンテストで賞がとれるのかと聞かれるのですが、それはもう回数をやるしかない。Youtubeを見てマインドとセンスで賞がとれるほどコンテストは甘くない。何度も何度も繰り返し、削ぎ落としていく中で自分らしさが現れるんです。
準グランプリは、勝てなかった悔しさと同時に、自分のスタイルを確立する大きな学びとなりました。
