美容師小説

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­-第19話-­【1950年 岐阜】 朝鮮戦争が始まった。

 鴨が、揺れていた。

 足を縛られ、逆さに吊された鴨が勝手口で揺れていた。

 大野は腰を抜かしていた。

 

 「Yoshio ! Are you all right ?」

 <ヨシオ、だいじょうぶか>

 キャプテン・マカボイが2階から下りてきた。

 「あぁキャプテン、すみません。大丈夫です。これ、今日の戦果ですか?」

 「そうだ。ヨシオは鴨をさばけるか?」

 「いや、すみません。経験がありません」

 「そうか。じゃあ隣の中佐のボーイに教わりなさい」

 そう言ってマカボイはキッチンに入り、1本のびんをぶら下げて戻ってきた。

 大野はようやく立ち上がった。

 「ワインだ。これを手土産にして、頼んでみてくれ」

 そう言って、マカボイは再びベッドルームのある2階へと戻っていった。

 

 隣のハウスボーイとは仲良しだった。ゴロウさん。19歳。大野より3つ年上なのに、大野のことをいつも「ヨシオさん」と呼ぶ人だった。

 

 翌朝。

 大野はマカボイを送り出すと、鴨とワインをぶら下げて隣のハウスに向かった。

 「おはようございます」

 ドアをノックし、日本語で言った。

 「あぁ、ヨシオさん」

 ゴロウは笑顔で迎えてくれた。

 「これ、ぼくにはさばけなくて、キャプテンが隣に行って教われ、と」

 「ははは。そっちにもありましたか。わかりました。やりましょう」

 ゴロウはやさしい人だった。じつは昨夜、ゴロウはすでに中佐の“戦果”をさばいていた。ちょうど大野が初めてのキャバレーでドキドキしていたころだ。

 大野がワインを渡すと、ゴロウは大野をキッチンに迎え入れ、グラスをふたつ用意した。

 「じゃ、飲みながらやりますか」

 

 ゴロウはまずグラスにワインを注ぐと、大きな鍋で湯を沸かし始めた。沸騰すると、鴨をそのまま熱湯につける。

 「イチ、ニ、サン、シ、ゴッ」

 数えたらさっと上げて、羽を抜き始めた。

 「こうやって、ていねいに。皮をやぶらないようにね」

 少しやってみせると、あとは大野に託した。

 羽は意外にもするりと抜けた。

 「熱湯にくぐらせると抜きやすくなるんです」

 ゴロウは言いながら、まな板と包丁の準備をしている。

 大野はていねいに、全体の羽を抜いた。

 ゴロウは再び湯を沸かす。大野が抜き終わった羽の跡に、細かい羽毛が残っていた。ゴロウは羽のない鴨を手にとると、もう一度、沸騰した湯にさっとくぐらせた。

 「今度はこの細かい毛を全部抜いてください」

 大野は無心で抜いた。やがて鴨はつるつるの皮に包まれた物体と化した。

 ゴロウは包丁を手にすると、頭の付け根からまっすぐに背中を切った。

 

 そこからはまさに神業のようだった。鴨は次々に向きを変え、包丁がさまざまな角度で入れられる。

 むね肉、もも肉、手羽元、手羽先……。鴨が解体されていく。

 解体を終えると、ゴロウはそれぞれを個別にさらしで包み、冷蔵庫へ入れた。

 「さぁ、飲みましょう」

 そういえばグラスに注がれていた赤ワインには、まだ一度も口をつけていなかった。

 

 「ヨシオさん」

 キッチンのテーブルで、ワインを飲みながらゴロウが言った。

 「オレ、アメリカ軍に入るんです」

 「えっ」

 大野は驚いた。

 「ゴロウさん、軍人になるんですか」

 「はい。できれば国籍も取りたい」

 

 当時、アメリカ軍は旧日本兵を、文字通り“リクルート”しようとしていた。

 条件は、

 (1) アメリカ軍の訓練を受ける(最短6カ月)

 (2) 戦争が始まったら最前線に送られる

 (3) 生還したらアメリカ国籍が取れる

 (4) 戦死したら家族に1万ドルの補償金が渡される

 

 じつは大野も誘われたことがあった。

 「おまえ、ハウスボーイなんかやってないで、軍に入ってアメリカ国籍を取ればいいじゃないか」

 ハウスボーイを管理している軍曹の誘いだった。

 大野は即答した。

 「申し訳ないですけど、ノーです」

 「どうしてノーなんだ」

 「ぼくらはこれから日本を復興していかなきゃならない。もちろんあなたがたアメリカ人の協力をもらって、ですけど。そのとき、ぼくは両者の間を取り持つ存在でいたいんです。アメリカ人になるのではなく、日本人として手伝いたいんです」

 「そうか。ま、おまえの人生だ。それでいいんじゃないか」

 軍曹は、強要しなかった。大野の意志を尊重してくれた。断ったからといってその後の待遇に影響することはなかった。軍曹はそれからも普段通りに接してくれた。

 

 それがアメリカの言う“自由”というものだった。個人には自由がある。自分の進む道を自由に決める権利がある。それは占領下の敗戦国国民であろうと同様である。そんな原則が、岐阜のキャンプの中にも浸透していた。

 

 ゴロウは日本国籍を捨て、アメリカ国籍になることを選んだ。そして大野は、日本国籍のままでいることを選んだ。それこそ“自由”だった。個人の自由。だが、大野は思うのだった。“自由”とは、なんとたいへんなことなのか、と。

 

 自由とは、選択ができるということだった。目の前にAとBという道があれば、どちらでも選択できる。それが“自由”だ。大野はそれまで、そのような選択を迫られることはなかった。

 

 戦時中は、国が決めた。国がAという道を決めたならば、大野もAを往く。Bという選択肢はない。それは確かに不自由ではあるし、理不尽なことだとも思う。だが、それは今思うからだ。そのときは何も考えなかった。考える必要はなかった。

 

 そうだ。“自由”とは、考えることなのだ。考えなくてはならないのだ。自らの頭で考えて、AかBかを選ぶ。Aを選んだら、Bを捨てる。捨てたらもう忘れる。後悔はしない。いやむしろ先々後悔しないように、考える。考え抜く。だからたいへんなのだ。

 

 大野は日本にとどまる道を選んだ。日本とアメリカの架け橋になる人生を、選んだ。だが、いったいどのようなことをすれば架け橋になれるのか。その具体的なイメージは、まったく見えていなかった。

 ひとつは英語。だが、それは手段に過ぎない。もうひとつは“タイプ”。大野はマカボイの勧めで、タイプライターを練習していた。だけどそれも手段だった。

 将来、自分はどんな仕事をするのだろう。

 

 思いつかなかった。いくら考えても、大野の中で職業が具体的な像を結ぶことはなかった。

 敗戦によって、日本は様変わりしていた。これからどんな仕事が生み出されるのか。どんな仕事が発展していくのか。まったくわからなかった。

 

 

 その日、大野は激しくドアを叩く音で飛び起きた。

 1950年6月25日。午前5時48分。マカボイが階段を駆け下りる音が聞こえた。

 「非常呼集!非常呼集!」

 ドアを叩きながら、だれかが叫んでいた。

 「これは訓練ではない!」

 その言葉に、大野は震え上がった。

 

 非常呼集。それは何か事件が起こったときに、基地内の兵士全員を武装して集合させるという命令である。大野は何度も“訓練”で、早朝や深夜の非常呼集を経験していた。しかし今回は「訓練ではない」と言っている。マカボイも前夜、何も言っていなかった。訓練のときは教えてくれるのだ。「明日は非常呼集がかかるぞ」と。だから心の準備はできている。だけど……。

 

 武装の準備は毎日整えていた。だから“訓練”の際には大野が起き出す必要はなかった。しかし今回はちがう。本物の非常呼集なのだ。いったい何が起こったのか。

 大野も階下へ駆け下りた。マカボイはすでにほとんどの武装を終え、玄関で編み上げ靴を履いているところだった。

 「What happened , sir ?」

 <なにがあったんですか>

 「I don’t Know !」

 <わからん>

 マカボイはそう叫んで、ドアを蹴破るように外へ走り出ていった。

 

 Korean War。

 隣のゴロウさんが教えてくれた。マカボイを見送ると、大野はすぐにゴロウを訪ねたのだ。

 「朝鮮で戦争が始まったそうです」

 大野は耳を疑った。

 「戦争は終わったばかりじゃないですか」

 思わず大声になってしまう。

 「いや、ソ連とアメリカがずっと朝鮮半島で向き合ってきたんです。いつ戦争になってもおかしくない状況でした」

 そんなこと、マカボイは一度も話してくれなかった。

 「大韓民国と、朝鮮民主主義人民共和国という2つの国ができたのは知ってますよね」

 新聞で読んだ記憶があった。たしか2年前のことだ。

 

 1945年8月。ポツダム宣言を受諾した日本は朝鮮半島から撤退した。その直後、ソビエト連邦(ソ連)が平壌に進駐。朝鮮半島北部を占領してしまった。一方、アメリカは南部を統治。その境界となったのが北緯38度線であった。つまり戦後、朝鮮半島はソ連とアメリカによる分割統治が行われていたのだ。

 それから3年。南部に大韓民国(韓国)が建国される。1948年8月15日のことである。つづいて9月9日。北部に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国。こうして南北の分断は確定された。さらに翌年、1949年10月1日には旧・日本軍が実質的に支配していた『満州国』を含む中国全土を毛沢東が解放し、中華人民共和国(中国)が建国された。

 その中国が、ソ連とともに北朝鮮を支援した。圧倒的な兵力と最新の装備を蓄えた北朝鮮は、武力による南北の統一をめざして突如、韓国に侵攻。それが1950年6月25日、午前4時のことだった。

 

 韓国側には、アメリカ軍が進駐していた。しかし当時の韓国政府もアメリカ軍も、北からの侵攻を予想していなかった。

 突然の、しかも未明の侵攻。約10万人の兵士が国境を越えて韓国へとなだれ込んだ。

 

 準備も予想もしていなかった韓国軍は総崩れ。わずか3日後の6月28日には首都ソウルが陥落。勢いに乗る北朝鮮軍は、一気に南下。たちどころに南端の釜山に迫った。

 

 朝鮮半島はほぼ、統一されかけた。だが、そこで北朝鮮軍は不可解な動きに出る。釜山攻略を目前にしながら、侵攻を停止したのだ。

 戦場には3日間の空白の時が生まれた。その間に韓国軍とアメリカ軍は体制を立て直す。

 

 

 キャンプGIFUは騒然としていた。広い各務原飛行場には一夜にしてテント村ができた。輸送機が次々に飛来し、武装した兵士を運び込んだ。

 キャンプGIFUには、アメリカ陸軍第6軍第25師団第27連隊が駐屯していた。朝鮮戦争勃発時の駐屯者数は、将校・兵士あわせて約1200名。そこに歩兵第24連隊が合流。さらに砲兵、工兵などが加わって混成旅団が形成された。兵数1万2000。つまりキャンプ岐阜には通常の10倍の兵力が結集したのである。

 

 キャンプ内には貨物用鉄道の引き込み線が入っていた。それを突貫工事で飛行場周辺のテント村まで延長。数十両の客車を連結した列車が兵士を輸送し始める。ある列車は名古屋港へ。別の列車は舞鶴港へ。昼夜を問わず兵士を運ぶ。その列車を、たくさんの女性たちが見送った。

 

 “オンリー”である。将校と愛人契約を結んだ日本人女性が、出征していく“彼氏”を見送る。プラットホームで抱きつきながら、泣きじゃくる女性たち。その中にはお腹の大きな女性もいた。

 大野はその様子を、毎日のように見た。それは旧・日本軍に招集された兵士が出征する様子とはあまりにも異なっていた。

 旧・日本軍兵士は、万歳の連呼で見送られた。たとえ夫婦であっても、夫の出征に妻が泣きじゃくることはなかった。兄の出征を、妹が涙で見送ることもなかった。当時の婦女子は、徹底的に我慢を強いられていた。

 

 あるとき、大野はひとりの兵士が号泣する姿を見た。「戦争に行きたくない」と、泣いているのだった。階級章は中尉。立派な将校である。

 大野は思った。きっと士官学校出のエリート将校だな、と。

 軍人には、現場の叩き上げと学校出のエリートがいた。両者の能力には雲泥の差があった。

 叩き上げは覚悟ができている。なにがあろうと動じない。しかしエリートは頼りなかった。こんな上官に指揮されたら、兵隊はたまったものではないな。大野がそう思ったとき、日本語が耳に飛び込んできた。

 「現地は大混乱らしいですよ」

 隣にはいつの間にかゴロウが立っていた。

 「北朝鮮軍は圧倒的な兵力で韓国軍とアメリカ軍を追い詰めているようです」

 ゴロウの情報はいつも正確だった。

 「アメリカが負けるなんてことがあるんですか」

 そう口にして、大野は鳥肌がたった。もしアメリカが負けたら、今度は北朝鮮が海を越えて日本へ攻めてくるかもしれない。アメリカに代わって北朝鮮が、あるいはソ連が日本を占領する……。そうなったら自分はどうなるのだろう。アメリカ軍のキャンプは、真っ先に攻撃対象となるだろう。そうなったら……。

 

 「虐殺が起きているらしいんです」

 ゴロウはさらに恐ろしいことを語り始めた。

 韓国では李承晩政権が、共産主義者を虐殺しているらしい。一方、北朝鮮軍はアメリカ兵の捕虜数十人を機関銃で銃殺したという。キャンプにはそんな噂がいくつも流れていた。

 

 号泣する中尉を見ながら、大野もまた泣きたくなった。せっかく戦争が終わったのに。せっかく平和になったと思ったのに。せっかく“自由”が手に入ったのに。

 

 仮設のプラットホームから、兵士を満載した列車が離れていく。たくさんの日本人女性たちが手を振って見送っている。号泣していた中尉の姿は、もう見えなかった。

 

 

 戦況が一変したのは、9月15日のことだった。連合国軍総司令官・マッカーサーは、ソウル近郊の仁川に約7万人のアメリカ軍兵士を電撃上陸させた。“仁川上陸作戦”である。

 朝鮮半島南端まで侵攻していた北朝鮮軍は、伸びきった兵站のほぼ中央を分断されて大混乱に陥った。

 アメリカ軍は韓国軍に加えて英国やフランス、オランダなど実に22カ国からなる“国連軍”を編成。9月28日にはソウルを奪還した。その、朝鮮戦争の分岐点となった“仁川上陸作戦”には、旧・日本軍の兵士が重要な役割を担っていた。

 

 

 上陸作戦の1カ月ほど前のことである。

 キャンプGIFUのアメリカ兵の中に、いつも他の兵士とほとんど言葉を交わさないアジア系の軍曹がいた。

 ある日、大野はその姿を見つけて声をかけてみた。そのときも軍曹はひとり、兵士たちの輪から離れてタバコを吸っていた。

 「Hello , Sergeant」

 <こんにちは、軍曹>

 英語で話しかけると、軍曹は振り向き、小声で答えた。

 「こんにちは」

 日本語だった。

 「えっ、日本人なんですか」

 「はい。じつは帝国陸軍の曹長でした」

 「それがまたどうしてアメリカ軍の軍曹なんですか」

 「じつはC級戦犯として逮捕されたんですが、アメリカ軍に徴用されて今はアメリカ軍の軍服を着ています」

 

 C級戦犯。それは「人道に対する罪」を問われた戦争犯罪人だった。

 

 敗戦国・日本の、戦争犯罪を問う軍事裁判。それは世界49カ国で行われ、1万人を超える軍人や軍属が逮捕された。その中で最も有名な裁判が“極東国際軍事裁判”。いわゆる東京裁判。ここでは主に「平和に対する罪」、つまり侵略戦争を始めた人々をA級戦犯として裁いた。

 一方、戦闘の指揮にあたった士官は「通常の戦争犯罪」を問われ、B級戦犯とされた。さらに下士官や兵士の中には「人道に対する罪」に問われた者もいて、C級戦犯となった。「人道に対する罪」。つまり捕虜の取り扱いを問題視されたのだ。

 

 戦争における傷病者の待遇改善のために制定された国際法『ジュネーブ条約』は1864年に締結された。その後、1929年には「俘虜(捕虜)の待遇に関する条約」が加わった。日本もその条約に署名したが、軍部の反対によって批准はしていなかった。つまり日本軍は捕虜の待遇に関するルールを持っていなかった。だから「捕虜であろうと敵国の兵士は一人でも多く殺すべし」という考えを持つ上官もいた。そんな上官の下、捕虜殺戮の命令を受けた兵士は当然、軍刀を抜く。あるいはピストルに手をかける。

 日本人軍曹もまた、そうやって捕虜を殺した。殺すことを命令された。それが戦後、罪に問われたのであった。

 

 軍曹は、名前をケンと名乗った。

 「ケンさんは、アメリカ国籍を取ったんですね」

 「はい。アメリカで6カ月、訓練を受けて国籍を取りました」

 「前線に行かれたんですね」

 「朝鮮に。小生は戦中、朝鮮に駐在していたんです。だから地理に詳しいということで」

 「生還されてよかったですね」

 「いえ、これからまた出征です。今度は船に乗ります」

 「船、ですか」

 「掃海艇です。詳しくは言えませんが、機雷を掃海するんです」

 

 旧・日本軍は朝鮮近海に浮遊機雷を多数、敷設していた。一方、アメリカ軍も爆撃機から機雷を落とした。その両方の海図を付き合わせて、掃海事業に挑む。それが“仁川上陸作戦”の前哨戦だった。アメリカ軍は秘密裡に仁川周辺の海域の機雷掃海を始めた。兵士を乗せた上陸用舟艇を、安全に運行するためである。その最前線に送り込まれたのが、ケンたち、C級戦犯を中心とした旧・大日本帝国海軍の兵士たちだった。

 

 機雷掃海は、戦争の最前線。危険極まりない事業だった。そこに送り込まれたのは旧・日本軍の軍人たち。それが戦勝国・アメリカの方針だった。それは当然のこととして受け止められ、疑問を口にする者はいなかった。どんな国でも、できれば自国の若者を最前線で危険にさらすのは避けたい。こうして日本人は、機雷掃海に従事した。さらに上陸作戦が始まると、兵士を陸地に送り込む上陸用舟艇の操縦も任された。どちらも最も危険な仕事だった。

 

 もし生還できたら、アメリカ国籍が取れる。それが危険に挑む動機だった。死んだとしても、遺族には1万ドルが支払われる。それも日本人の若者の気持ちを支えた。戦争は結局、終わってはいなかったのだ。

 

 ケンさんは、ほどなく出征していった。その後、ケンさんがどうなったのか。大野が知ることはついに、なかった。

 

 

つづく

 


 

☆参考文献

 

『超訳 日本国憲法』池上彰 新潮新書

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店