◆at’LAV◆ by Belle 冨山倫宏さんのびよう道 カリスマ美容師時代の過酷なサロンワークを生き抜き「技術がすべて」を証明。 デビュー直前に脱落者が続出! 限界突破の25年を経て見えてきた、美容師の流儀
美容室でも待遇や休日が大切と言われる時代です。もちろんそれも良いですが、美容人生のどこかで“心も体も美容でいっぱい”という時期があっても良いかもしれません。
「びよう道(みち)」は、そんな地道で壮大な鍛錬の道を歩んできた“美容の哲人”に、修業時代に一人前になったと思った瞬間や美容の哲学など、それぞれの美容の道を語っていただく連載企画です。
デビュー時から月100万円を軽々と売り上げるカリスマ美容師にも、「辞めたい」と膝をついた修業時代がありました。何度叱られてもハサミを握り続け、撮影現場を駆け回り、25年以上にわたり人気を不動のものにした冨山倫宏(とみやま ともひろ)さん。その“限界突破”の原動力はどこから生まれたのか。彼の歩んだ「びよう道」を、一緒にめぐります。
「もう限界だ、辞めたい」と思ったのは1回や2回じゃない
絶対に忘れられないのは修業時代ですね。美容学校でも成績は下位で、ワインディングもカットもクラスで下から数えた方が早いほど。入社してからも状況は変わらず、技術が伴わないまま現場に立ったので、毎日が苦労の連続でした。
アシスタント時代の僕はとにかく不器用だったこともあり、今ならパワハラとして問題視されるほど厳しい叱責を受けていました。まあ、良くも悪くもそれが当たり前の時代だったんですよね。
しかも時代はカリスマ美容師ブーム。僕が勤務していたのは大型店で、黙っていてもお客さまが来店するような状態だったので、平日も土日もほぼ休憩なし。ご飯を食べる時間すらないくらい忙しかった。ご案内してシャンプー、またご案内してシャンプー……気づいたら夜中、という流れを延々と繰り返すだけで、技術を磨く余裕すらありませんでした。
正直に言って心身ともにきつく、「もう限界だ、辞めたい」と思ったのは数えきれないほど。実際に店長へ直談判し、「辞めさせてください」と訴えたこともあります。それでも毎回「もう少し頑張れ」と引き留められ、ときには「で、お前は何がやりたいんだ?」と聞かれました。けれど当時の僕には、やりたいことなど見えていなかった。仮に「これだ」と言っても、「お前には無理だ」と一蹴される。そんなことの繰り返しでした。
辞めて次にやることもないので、何とか踏みとどまってきました。でも、あの頃の経験が今の自分を支える土台になっていると思うんですよ。
「ダメなら鹿児島の実家に帰ろう」と腹をくくった
技術が伸びず、毎日怒鳴られ、不眠症になるほど追い詰められた僕は「とにかくやれるだけやって、ダメなら鹿児島の実家に帰ろう」と腹を括りました。
早朝から店に入り、夜中の2時、3時まで残る日々。練習が終わったらすこしでも睡眠時間をとるため走って家に帰り、また朝練……元野球部だったので体力的には耐えられましたが、精神的にはギリギリでした。それでも、がむしゃらに手を動かし続けた結果、少しずつ技術が身につき、仕事を任せてもらえるようになり、褒められることが増えたんです。つらいだけだったサロンワークが楽しくなり、「やれば結果は出る」という手応えを得られたことが、ターニングポイントになりました。
当時はSNSもなく、自力で集客しなければならない時代。僕は“勝手にプレス担当”と称し、撮影に必要なモデルをカテゴリー別にリスト化し、編集部へ売り込み、撮影現場に同行してスタイリストのサポートを買って出ました。サロン全体で160人ほどのスタッフがいたため、埋もれない工夫が不可欠だったんですよ。
スタッフが溢れる環境では、「撮影をやりたいです」と口で言うだけでは埋もれてしまいます。だから自ら必要とされる仕事を先回りでこなしました。この頃には技術も身につき、精神的にも余裕が出ていましたが、スケジュールは相変わらず過酷で、休みの日は朝から深夜まで撮影、平日は営業後にモデルハント。社会保険もないなか月給は十万円前後。実家からの仕送りなしでは生きていけないレベルでした。
>再来率50%&3カ月連続90万円突破、厳しすぎるデビュー基準