JHAグランプリ受賞の飯笹豪が初登場!福岡から発信する圧巻のクリエイティビティ。サロンワークでは月売上500万を20年以上継続、愛ある美容師魂に迫る


自分の実力と成長を把握しながら、働ける場所


――24歳のとき、全国展開しているクリエイティブサロンに入社し、福岡の店舗に配属されます。その頃から、クリエイティブを頑張りたいという思いがあったのでしょうか。
 

そのサロンを選んだのは、僕は自分の技術や売上が全店で何位なのか、その立ち位置を知りながら仕事をしたかったからです。全国展開しているサロンにいれば、福岡にいる自分も、全国的な立ち位置がわかります。実力をはかるためにコンテストにも出場したかったので、「まずは成果を出さなくては」ということで、大きなコンテストで受賞できるように頑張りましたね。それまでJHAの大賞部門で九州にノミネートされた人がいなかったので、それをやりたくて。そういった目標を一つひとつ実現していき、2年前に遂にグランプリをいただきました。


 

 

――20年間挑戦し、念願のグランプリ受賞ということで、泣いて喜ばれたお客さまもいらっしゃったそうですね。作品作りは、どのような形で行っていたんですか?
 


始めたばかりの頃は今のような便利なネット社会ではなかったので、雑誌を見て「かっこいいな」と思うスタイルを切り取って集めて、「どうやって作るんだろう?」と考えながら作ってみる、を繰り返してました。誰かに習ったことはなくて、完全に独学です。最初は福岡で撮影をしていたんですけど、JHAの九州チャンピオンになったタイミングで、全国の”超一流”と認められる美容師と戦うとなったときに、やはりカメラマンの力も必要だなと思ったんですね。なので、そこからは東京で活躍するカメラマンのところに出向いて、都内で撮影していました。モデル事務所にも行き、『VOGUE』で活躍するような一流モデルを手配して、衣装代なども奮発してましたね。当時は会社から撮影費が出なかったので、それこそ飛行機代や宿泊費も含めると、一回の撮影で25万は必要でした。その費用を捻出するために、サロンワークもめちゃくちゃ頑張りましたね。



 

受賞して成果を出していくと、いろんな業界誌の仕事やCMの仕事、ヘアショーの仕事もいただけるようになっていくんです。しかし、その頃はクリエイティブチームが東京にあったので、「九州にクリエイティブチームを作ってほしい」とお願いしていましたね。やはり自分が作る作品が一番の表現方法ですし、評価にも繋がるので、「とにかくいいものを作ろう」という思いで取り組んでいたら、最終的には福岡にいながら全体のクリエイションを率いるテクニカルディレクターになっていました。


 


>「地方にいても活躍できる」を証明するために

 

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