Y.S.PARK パーク ヤン・スー 震源と、そのマグニチュード。【GENERATION】雑誌リクエストQJ1999年1月号より

おでこの下とおでこの上。

 

 

衿持、である。

自負でもプライドでもなく、衿持(きょうじ)。

彼の発するコトバのエネルギー源は、美容師として、あるいはデザイナーとしての衿持なのではないか。

 

衿持とは、誇りである。

自分が拠って立つ何かを、誇ることである。

自らを「デザイナー」だと言い切る彼が、拠って立つもの。誇るもの。それが“オリジナリティ”なのである。

 

「ヘアファッションというのはもちろんお客さんに気に入ってもらわなきゃいけないんですが、でもそれと同時に、自分でも気に入ってる頭をやってなかったら、絶対おかしいと思うんですよね。ただの注文取りじゃないですか。注文をいってくれる人が何人いるかって、それを自慢している人もいますけどね。それはそれで立派なことだと思いますけど、でもジャンルが違うなと、ぼくは思いますね」

 

私は思った。

彼はなぜ違うジャンルに進んだのか。

なぜ、そこまでオリジナリティにこだわるのか。

なぜ、そしていつから『デザイナー』としての衿持を心の底に宿したのか、と。

 

彼が美容師を志した理由に、特筆すべきものはない。

高校時代、モトクロスのレースに明け暮れていた彼は4カ所の骨折を経験している。

モトクロスは確かに華やかだが、常に生命の危険と背中合わせのスポーツだった。

 

しかし彼がモータースポーツヘの道を断念した理由は、危険がすべてではない。

日本のモータースポーツの草創期にあたる当時、彼の仲間にはきら星のごとく輝く才能が身近に存在したのである。

 

「全然違うんですよ。ぼくらはこぶの麓から登って、頂上から降りていく。星野さんはこぶの頂上だけを、文字通り飛んでいくんです」

 

圧倒的な力量の差。それが彼をモータースポーツから遠ざける理由であった。

 

ちなみに星野さんとは『星野一義』。

その後、四輪のレーシング・ドライバーに転身し、国内トップフォーミュラの世界で「日本一速い男」と呼ばれることになる男であった。

 

モータースポーツを諦めたパークは、高校を卒業すると美容学校に進む。

理由は「きれいなものをつくることが好きだった」からである。

 

「あんまり深く考えなかったですけどね。美容を選んだら、母親も喜びましてね。これでお前は死ぬことなくなった、と」

 

美容学校に入ると、彼は講師の言葉に感激する。

 

「美容はトータルファッションだ。おでこの上ばかり見てたらダメなんだ」。

 

「なるほどその通りだ、と。すごいいい仕事だなぁ、と思ったんですよ。でも職場に入ったら全然違うんですよ。おでこから上だけなんですよね」

 

彼は「なんか違うな」と思い始めた。

 

「それからですね。コツコツとね、作品をつくり始めましたね」

 

 

吸収するだけの放浪の旅。

 

しかし日本の美容界は、まだ『作品』を重く捉えていなかった。

彼がいくら作品をつくろうとしても、彼が勤めた美容室はなかなかつくらせてはくれなかった。

そこで彼は海外へ出る。最初の行き先はロンドンであった。

 

「ロンドンに行ったら、自分が何をやってきたかということを言葉で説明できないんですよね。特に就職する時、作品がなかったら全く説得力がない」

 

彼は25歳の時にロンドンのサロンに勤め、翌年はパリのサロンのスタッフになった。さらに翌年、今度はカナダのバンクーバーのサロンに移る。

 

「バンクーバーってね、とてもきれいな街なんです。だけど別の角度から見るとヨーロッパ人の吹き溜まりみたいな側面もある街だった。サロンの中だって5カ国語くらいみんなしゃべりますし、誰もがいろんなところに行ってますから。話を聞いてると最初はかっこいいわけですよ。すげえなぁ、と」

 

彼は毎日、ワクワクしながらいろんな国の話を聞いていた。

だがある時、思うのである。

「あ、こいつら放浪しているだけなんだな」と。

 

「自分も含めてね。これはもう放浪だなと思ったんです。確かにいろんな知識はつきますよね。でもあるところから見ればそれはただの放浪なんですね。だって自分は何か表現しなきゃいけないわけですよ。なのに吸収ばっかりなんですよ」

「吸収ってね、ある一定のところにくると何かを忘れて、うっちゃらない限り次の知識って入らないことってあるじゃないですか。たとえば通算10カ国で働いている人がいれば、もう前半のことを忘れちゃってるわけですよ。それはただの放浪ですよね」

「かたや技術だってそうですよね。いくつ技術があったって、お客さんは目の前に一人しかないんですから。どうせ何かひとつ選んで持つんだったら、オリジナリティを持った方がいいんじゃないかなと思ったんですよ」

「人がやってることをたくさん知ってることも大事ですけど、それはぼくがやんなくても他の人がやってくれる。ならば、自分はやっぱりオリジナリティを持って生きていこう、と」

 

彼はバンクーバーで気付いた。

自分の人生の方向性を、見定めた。

 

「放浪を求めていたんであればそれでいいと思うんです。だけど自分はせっかく生まれてきたんで、何か役に立たなければいけないと思ったわけですよ。ロンドンでお世話になった人もいるし、パリでお世話になった人もいる。そういう人たちに何が返せるのか、と」

 

パーク ヤン・スーは帰国した。そして代官山にサロンをオープンした。

1980年のことである。

 

帰国すると、彼のもとには講習依頼が舞い込んだ。

日本の美容界は海外で数年間仕事をしていたというだけで、その人の講習が成り立つシステムをつくり上げていた。

 

「全部断りました。なぜかというと、それでみんな海外に行った代金を回収してるだけなんですよ。全然返してないんですよ。それはサイクルじゃないですよね。ぼくは返したいと思った。そのためにはまず、作品だと思った。なにより作品をつくりたかった。東京でつくって向こうで発表できるような作品を」

 

彼は猛然と作品づくりを開始した。

だがそこにも、彼の意志とイメージを阻む壁が存在していた。

 

「たとえばね、撮影する時は一回つくって、ちょっと崩してもう一回違うのをつくりたいわけですよ。ぼくは自然光が好きなんですよね。外ですよね。ドライヤーもないわけです」

 

当時、髪を固めるスタイリング剤として他を圧倒していたのが、『ヴィダル・サスーン・ミスト』であった。

 

「でもね、あれってフレーキング(白い粉を吹く)しちゃうし、外では簡単に直せないんですよ」

 

彼は困った。

外で撮影する際に簡単に直せるスタイリング剤はないか。

そう思って調べていくうちに、彼の興味は意外な分野へ向かっていった。

 

>大相撲に見たデザインの礎。

 

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