美容師小説

美容師小説

­-第10話-­【1942年 ロンドン】 シャンプーボーイ – 2

 “電髪”ではもうひとつ、おそろしい体験をしたことがある。電源を切り忘れ、お客の髪を焼いてしまったのだ。

 

 ロングヘアの、美しい女性だった。髪には少し赤みかがり、そのまま電髪でカールをすると女優のリタ・ヘイワースのような姿になることが想像できた。

 いつものように先輩スタイリストが毛束に薬剤を塗り、コードのついた金属のロッドに巻き付ける。すべて巻き終えるとヴィダルがスイッチオン。空襲警報が鳴り出したのは、その少し後のことだった。

 

 ヴィダルは別のお客のシャンプーを始めていた。警報を聞くと、ヴィダルはすぐにシャンプーを中止。お客の濡れた髪をタオルでくるんで避難所へと案内を始めた。途中、電髪ブースに立ち寄って“リタ・ヘイワース”に告げる。

 「申し訳ございません。必ず戻ってまいります。警報が解除されるまで、そのままでお待ちください」

 通常はそこで電源のスイッチを切る。ところが、その日はシャンプー途中のお客の髪に気を取られていた。ヴィダルはそのまま、お客とともに地下2階の避難所へ向かったのだ。

 

 警報が解除されてヴィダルが避難所のドアを開けると、焦げくさい匂いが漂っていた。その匂いは、空襲で起きた火事の匂いとはまったく異なっていた。シャンプー途中のお客を支えながら、ヴィダルは階段を上る。匂いはますます強くなる。

 「あっ!」

 ヴィダルは目を疑った。電髪ブースに残した“リタ・ヘイワース”。その頭からロッドが髪ごと落ちていた。残ったロッドからも白い煙が立ちのぼっている。目を見開いて呆然と立つヴィダルの目の前でまた一束、ロッドとともに髪が焼け落ちた。

 「オー、マイっ!」

 ヴィダルはそのまま凍り付いた。見事なロングヘアが、その半ばでほとんど焼け落ちている。ヴィダルは震え始めた。

 すぐにミスター・コーエンが追いついた。

 「オー、マダーム」

 ミスター・コーエンはすぐに電源を切り、残ったロッドを外す。女性は目を閉じていた。両手はイスの肘掛けをしっかりとつかんでいる。

 「たいへん申し訳ございません。ほんとうに申し訳ございません」

 ミスター・コーエンは何度も謝りながら、いつの間にかハサミを手にしていた。

 

 シャンプー途中のお客は、先輩のダグが代わりにブースに案内してシャンプーのつづきを始めた。ヴィダルはまだ動けない。ミスター・コーエンの後ろに立ちすくんでいる。ミスター・コーエンは素早くハサミを動かしながら、女性の髪をカットしていく。焦げた髪を取り除きながら、あたらしいヘアスタイルをつくっていく。みるみるうちにベリーショートのヘアスタイルができあがっていった。それはまるで手品のような鮮やかさだった。

 「マリア・カットね」

 目を開けた女性が鏡を見て、初めて言葉を発した。

 

 マリア・カット。それは映画『誰が為に鐘は鳴る』で、イングリッド・バーグマンが演じた『マリア』のヘアスタイル。それもまたリタ・ヘイワースとともに、当時の人気を二分するヘアスタイルだった。

 ロングならリタ・ヘイワース。ショートならマリア・カット。

 ヴィダルのミスによって、その女性は希望するリタ・ヘイワースからマリアになってしまった。だが、それでも女性はヴィダルのほうを振り向いて言ったのだ。

 「戦争中だもの。これも悪くないわ」

 

 ヴィダルは救われた。だが、ミスが消えたわけではない。凍り付いた状態からようやくほどけた口を動かし、ヴィダルは謝った。何度も、何度も。

 

 その夜、ヴィダルはミスター・コーエンに叱られた。

 ミスはだれにでもある。だけど、そのミスが取り返しのつかない事態になることが、この美容の世界にはたくさんある。だからこそ、ひとつひとつの仕事に集中して、真剣に取り組まないといけない。やるべきこと。やってはいけないこと。それをまずしっかりと身体に染み込ませるんだ。ま、今回のことで、君の身体にはもうぬぐいようのないほど染み込んだとは思うけど。

 

 確かにそうだった。だがもうひとつ、ヴィダルの心に染み込んだことがある。それはミスター・コーエンの技術だった。あのような状態をハサミ1本で切り抜ける技術。

 その話をすると、ミスター・コーエンはこう言うのだった。

 「技術はもちろんたいせつだ。だからしっかりと教えてあげる。自分でも練習するんだ。だけどもうひとつ、たいせつなことがある。それは美容以外の世界を知ることだ。美容師として、世界を視ることだ。サロンに閉じこもっていないで世界を視ることが、美容師を磨く。発想の幅を拡げる。応用力をつくる。わかるかね?」

 

 美容師として、世界を視る。それはミスター・コーエンの口ぐせだった。

 ミスター・コーエンは、日頃からスタッフ全員に言いつづけていたのだ。

 「映画を観なさい」「美術館に行きなさい」「写真展に行きなさい」

 しかもそれらすべてを「美容師として」視なさい、と。つまり視て、美容の仕事に取り入れる。視たこと、感じたことのすべてを身体のなかに取り込み、美容の仕事に活かす。

 

 ヴィダルは、シャンプーでチップが入ると映画を観た。リタ・ヘイワースの『血と砂』は観ていた。イングリッド・バーグマンの『誰が為に鐘は鳴る』も観た。

 美術館にも、写真展にも足を運んだ。また音楽も楽しんだ。当時はビッグバンド全盛の時代。デューク・エリントン。カウント・ベイシー。また歌手ではビリー・ホリディ。トニー・ベネット。フランク・シナトラ。そのすべてをヴィダルはラジオで聴いて楽しんでいた。ただ、たまにシャンプーでたくさんチップをもらうと、レコードを買うこともあった。

 

 チップはたくさん稼いだ。ヴィダルはシャンプーが得意になっていたのだ。

 

 教えてくれたのは、先輩のダグである。ダグはシャンプーを教える前に、ヴィダルの髪を実際に洗ってくれた。

 それは初めての感覚だった。髪というより頭皮がなんとも心地いい。ダグの細い指先がヴィダルの頭を動き回る。最初はゆっくりと、髪の生え際から始まって頭頂部へ。ヨコに動いていたかと思うと、タテに動く。繊細に、やわらかく。かと思うと激しく。ヴィダルは驚いていた。こんなシャンプーがあるのか。いやこれがプロのシャンプーなのか。

 すべてが終わり、お湯で洗い流してもらったときには脳の中まですっきりしたような印象が残るのだ。

 「すごい」

 思わずヴィダルはつぶやいた。

 

 「ストーリーがあるんダ」

 ダグは言った。

 「プロローグがあって、第一章、第二章……」

 ヴィダルは応える。

 「たしかにクライマックスもあって、エピローグまでありました」

 「そう。その間に音楽でいうフォルテシモとか、ピアニシモ。アレグロ、アンダンテ」

 「わかります。いや、よくわかりました。まさしく音楽だった」

 「でも、シャンプーでほんとうにたいせつなことは何だかわかる?」

 「えっ。いや、なんでしょう?」

 「心さ」

 「heart?」

 「魂とも言う」

 「soul……」

 「気持ちよくなってほしい、という心を指先に込めること」

 「はぁ……」

 ヴィダルには理解できなかった。心? 魂? 手や指の動かし方ではないのか。動かす技術ではないのか。手順ではないのか。

 「技術は気持ちを伝える手段なんダ」

 「技術は、手段……」

 「そう、手段にすぎない」

 なにかとってもたいせつなことを、ダグは言っているような気がした。だが、そのときのヴィダルにはよくわからなかった。

 

 シャンプーの練習が始まった。

 まず教わったのは手順だ。タオルを首まわりに巻いて、その上にシャンプークロスをかける。シャワーノズルからお湯を出し、自分の手首の裏側に当ててその温度を測り、調節する。お客さまの髪全体にお湯をかけながら、表面の汚れを落とす。

 ヴィダルはダグの頭を借りて、まずそこまでの手順を繰り返した。何度も、何度も繰り返した。

 頭で考えることなく、身体が正確に動き始めると次の手順に移る。

 お湯をいったん止めて、シャンプーを手に取る。手のひらで泡立て、髪にまんべんなく塗布。そこから“演奏”の開始だ。

 ダグはたしか首筋の生え際から“第一楽章”を始めた。ここをタテにゴシゴシと動かして、つづいてここをヨコ向きにゴシゴシ。

 「ヴィダル、君は右利きか?」

 ダグがシャンプーボウルの中から聞いてきた。

 「はい。そうです」

 「右手のほうが強いな。両手の力を同じにするんだ。バランスをとって」

 ん? 右手と左手のバランス……。そうか、力が違うのか。そういえばダグのシャンプーはそんなことをまるで感じさせなかった。両手の力はまったく同じだった。

 髪を洗う手順どころではなかった。その前に左右の力のバランスを取る。しかしその前にヴィダルの両手は思うように動かない。ダグのようにシャカシャカと細かく、素早くなんて動かない。ゴシ、ゴシ、ゴシ、ゴシゴシ……。

 あぁ、とヴィダルは思った。手が動かない。なぜだ。そう思いながらシャンプーをしているとダグが笑い始めた。

 「くっくっくっ、痛いぜ。いらいらしてるだろ。その気持ち、指先から直接、伝わってくるんダぜ」

 

 それがシャンプー練習のスタートだった。人の頭を洗うことがこんなにむずかしいとは思わなかった。これでは心を込めるなんて、いつになったらできるのか。

 「だいじょうぶ。みんなそこからスタートするのさ」

 髪を乾かし終えると、ダグは言った。

 「えっ。ダグもそうだったの?」

 「オレはもっとひどかった。指が細いから、逆に力が伝わらないのサ」

 まさか。ヴィダルは思った。あの細い指だからこそ、得も言われぬ気持ちよさがつくり出せるのだと思っていた。

 「苦労したよ。力を入れると今度は痛いと言われる」

 ダグは練習を重ねたという。

 「力の加減は自分のヒザを使って確かめた。左右のバランスの違いだって、こうやって床に座ってヒザを立てて」

 そう言ってダグは床に座り込んで右ヒザを立てた。

 「このヒザを頭に見立てて手を動かすのサ。左右の力が同じになるまで。とにかく手を動かした。四六時中、時間さえあれば手の動きを反復した」

 それを聞いて、ヴィダルもやってみた。自分のヒザで試してみると、確かに右のほうが強い。かなり、強い。しかも左手は動かない。ぎこちない。さらに力も弱い。

 練習した。ヒザの上で、ダグの頭で、他の先輩たちの頭も借りて。毎日、毎日、練習した。気がつくと、空中でも手を動かしていた。

 上手になりたかった。エクセレントなシャンプーボーイに、なりたかった。そうしてチップをいただく。最初はそれが目標だった。チップで稼ぐ。それがモチベーションだった。あの日の、あのお客さんと出会うまでは。

 

 その女性は、空軍の兵士だった。ブロンドのショートヘア。軍服姿がカッコよかった。

 ようやくお客のシャンプーに入り始めて8日目のことだった。その間、100人を超えるお客のシャンプーをしたが、チップをくれる人はまだひとりもいなかった。

 

 空軍の女性は、少し疲れた表情をしていた。ヴィダルは自然に思った。この人の役に立ちたい。戦争の疲れをいやしてあげたい、と。

 それまでは、頭の中で手順の確認をしながらのシャンプーだった。まずこうして、次にここをこうして、これが終わったら次はこれ……。

 だけど少しだけ慣れていた。頭で確認しなくても身体は勝手に動いた。それよりもこの空軍女性の役に立ちたい。そう思った。シャンプーの間、ヴィダルは念じつづけたのだ。気持ちよくなってください。疲れが少しでもほぐれますように。そう思いながらシャンプーをしていると、指が何かを伝えてきた。

 

 最初、その感覚が何か、ヴィダルには理解しかねた。頭の皮膚が動いている。ヴィダルの指先を跳ね返したり、迎え入れたりしている。そんな感覚に気づいたのだ。さらに骨。頭蓋骨のくぼみがヴィダルの指を誘っている。「ここよ」と、ヴィダルを呼んでいる。ヴィダルは疑うことをやめた。指先の感覚に身を任せた。頭の中には手順のかけらもなく、ただ、手が、指が動いた。勝手に動いた。頭皮が、頭蓋骨が、指を呼ぶ。指はそこへ向かってためらいなく進んでいく。たどり着くと、指は踊り始める。最初はゆっくりと。次第に激しく。

 頭の中はからっぽだった。ヴィダルは自分の指が楽しそうに踊っていることを愉しんでいた。

 「もうだいじょうぶ」。突然、そんな感覚が指先から伝わってきた。どこまで手順が進んでいるのか、まったくわからなかった。だけど終わったのだ。シャンプーは、終わった。その事実をヴィダルは直観した。

 

 濡れた髪をタオルで巻いて、身体を起こしてあげると兵士は言った。

 「すごかったわ。あなた、最高よ」

 その言葉で、ヴィダルは我に返った。

 「あ、ありがとうございます」

 空軍女性は、胸ポケットからお金を出してヴィダルに手渡した。初めてのチップ。ヴィダルが呆然としていると、空軍女性は言った。

 「ありがとう。また今度もお願いね」

 うれしかった。ヴィダルにとっては、その言葉こそが最高の“チップ”だった。

 シャンプーは技術じゃない。気持ちだ。心だ。魂だ。そう教えてくれたダグの言葉が、初めて理解できた。

 

 その発見が、ヴィダルの美容師としての人生を動かし始める。

 カールやウエーブは相変わらず退屈だった。電髪も、ただ電源を入れたり切ったりするだけ。だけどシャンプーはおもしろい。そう思った。だけどもっとおもしろい技術が、ヴィダルを待っていた。

 カットである。

 

つづく

 

 


 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店