美容師小説

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­-第15話-­【1946〜48年 岐阜】 Welcome to United States !

 

 《伍長》の言葉を、大野芳男は耳に刻んだ。

 「来月、ラジオで英語會話の放送が始まるらしいわ」

 

 自宅の居間に、ラジオはあった。大型の木箱のような真空管ラジオ。前年の8月15日。天皇陛下の「玉音放送」を家族が聞いたラジオ。日本の敗戦を告げたラジオ。だが、それはもう古く、電波の入りが悪かった。

 大野は『英語會話』の放送を、1回目から聞くことに決めていた。絶対に聞く。全部聞いて、勉強する。放送開始は2月1日。それまでに、なんとかラジオを修理できないだろうか。

 父に相談した。しかし父は染め物職人。電気のことはわからない。ただ、父は芳男の尋常ならざる真剣さに打たれ、約束してくれた。

 「よし、わかった、知り合いに頼んだるわ」

 

 父の勤め先は川崎航空機である。戦時中は戦闘機を量産していたが、敗戦後は占領軍によってその事業は停止させられていた。代わりにつくっていたのはバス。バスのボディをつくって、トラックの車体に載せる。当然、そこには技術屋がいた。電気の専門家もいた。そのうちのひとりに父と仲のいい男がいた。

 父が頼むと、その男はすぐにラジオをつくり始めた。発売されたばかりの小さなサイズの真空管を調達し、たちまち幅30cmに満たない木箱に入った小型ラジオをつくりあげた。そのラジオを、父が持ち帰ってきたのだ。

 「おまえ、これで聞けるやろ」

 

 1946年2月1日。午前6時。ラジオから子どもたちの歌声が響き始めた。

 「カム、カム、エブリバディ、ハウドゥードゥ、アン、ハーワーユー♪」

 聞き慣れた節まわしだった。大野の頭の中では自然にその歌が奏でられる。

 「しょ、しょ、しょうじょうじ、しょうじょうじのにわは♪」

 そう、『証城寺の狸囃子』である。そのメロディに乗せて、子どもたちが歌う。

  Come , Come , Everybody , How do you do , and , How are you?

  Won’t you have some candy , one and two and three , four , five?

 

 番組は、その歌から始まった。講師は平川唯一。

 平川唯一は1918年、出稼ぎに行っていた父を追って米国に渡り、苦労して大学に入学。演劇を専攻して首席卒業した。その後、ハリウッドで俳優として活躍した後、1936年に帰国。日本放送協会(NHK)の英語放送アナウンサーになった。つまり筋金入りの英語の達人である。その平川が、わずか15分間の番組のために連日深夜までかかってつくりあげる放送原稿。その内容は、英語による日常会話を寸劇で伝えるものだった。

 

 早朝のラジオから流れてきたのは学校英語の「ヂィス、イズ、ア、ペン」ではなかった。大野はラジオにかじりついた。

 15分間。平川の英語を、その発音を、日本語訳を、徹底的に聴いた。

 録音機器などなかった。だから一発勝負。ただし、夕方の6時から再放送がある。それまでに朝の内容を何度も復習し、夕方の再放送で確認・補強する。そんな日々が始まった。

 

 「カタカナを使ってはいけません」

 それが平川の教えだった。英語はカタカナで表してはいけない。ちゃんと発音記号で覚えなさい、というのである。

 

 至難の業である。

 まず、日本人は発音記号なるものに馴染みがない。次に、発音記号を覚えても、その通りに発音ができない。なにしろ正確なネイティブ(母国語)英語を聞いたことがないのだ。だから便宜的にカタカナを使う。いや、使いたくなる。だが、英語の発音をカタカナで覚えてしまうと、それはネイティブとは全く異なる日本語英語になってしまう。それを避けなさいと平川は言うのだ。

 

 「カタカナでは、ネイティブの音はつかまえられません」

 

 大野は素直に従った。辞書を買ってもらうと、ラジオで出てきた英単語を調べ、その綴りと意味と発音記号をわら半紙に書き写して丸暗記する。耳で聞いた平川唯一の発音を覚え、何度も再現しようとする。

 もちろん、最初からできたわけではない。当初、大野の耳には平川の英語が音楽のように聞こえた。どんな単語が並んでいるのか、まったくわからなかった。すべての言葉がつながって聞こえてしまうのだ。そのつながった英語を、大野は無理に切ろうとはしなかった。そのまま、つながったまま丸暗記である。平川の発音通りに丸暗記。そこから始めるのである。

 算数も理科も捨て去った。社会科も国語もぶん投げた。ただ、ただ、英語。勉強するのは英語だけ。朝から晩まで英語だけ。

 

 そのうちに平川唯一の『英語會話』は、国民的な人気番組になっていく。とくに『証城寺の狸囃子』に乗ったテーマ曲は国民的愛唱歌となり、平川が作詞した歌詞は番組の愛称に転化した。それが『カムカム英語』である。そして平川唯一は『カムカムおじさん(Uncle Come Come)』と呼ばれるようになる。

 それは日本の英語ブームのはじまりだった。

 

 大野芳男はブームの最先端を走っている。

 翌1947年4月1日。学校教育法が施行されて、いわゆる六・三・三制がスタートした。旧制中学3年生だった大野は、新制高校1年生に編入された。

 『カムカム英語』を学び始めて1年と2カ月。大野の耳はネイティブ英語に慣れつつあった。当初は音楽のように聞こえていた英語は、ある日突然、単語の連なりとして聞こえるようになった。本当に不思議なことだが、突然聞こえるようになるのだ。耳で単語を区切ることができると、その意味が理解できるようになる。それはまさに画期的な進化であった。

 

 1948年。高校2年生になると、大野の耳はますます冴える。秋には平川先生の英語を、ほぼすべて理解できるようになっていた。

 

 しかし、学校の英語は相変わらず「カタカナ英語」だった。先生は生徒たちにカタカナ表記を勧める。

 ある日、大野は先生に質問した。

 「先生の英語は、カムカム英語とは違いますが、どうしてでしょうか」

 「ん」

 一瞬、先生は答えに詰まった。

 すると教室の後ろのほうから舌打ちが聞こえた。

 「ちっ。偉そうに」

 トオルである。

 あのケンカ以来、トオルは事あるごとに大野にぶつかってくる。とくに英語に関することになると、執拗にいやがらせをする。だが大野は相手にしないことにしていた。

 教師の木暮は、大野をまっすぐに見ながら言った。

 「ほうやけどな、大野。今の日本人少年にはカタカナで教えるしかないんや。おまえはラジオを聴いとるでええけど、全員が聴いとるわけじゃないでな」

 木暮良太郎は岐阜に生まれ、同志社大学を卒業した先生だった。戦前には米国留学の経験もある。だから発音は本来、ネイティブに近い。なのに授業ではわざとカタカナ英語にするのだ。大野はそれが理解できなかった。

 「ほうやけど先生、英語はコトバです。相手に通じないと意味がないでしょう」

 「ほうや」

 「やったら……」

 そこまで言ったとき、後ろから声が飛んできた。

 「アメリカとなんか話す必要はねぇわ」

 トオルである。トオルはいつも「アメリカ」である。アメリカ人ではない。「アメリカ」。つまり「人」ではないのだ。だからコトバが通じなくともよい。通じる必要はない。

 大野は無視した。無視しながら、腹の中ではぐらぐらと湯が煮えたぎる。

 (まったく、この国はどうなっとるんや。大人たちは「アメリカさん」「アメリカさん」って、手のひらを返したようにすり寄っとる。トオルは「アメリカ」を嫌って、コトバすら拒否しとる。先生は「日本の少年にはムリやわ」とか言って、カタカナ英語に甘んじとる。むちゃくちゃやないか。日本は負けたんやぞ。占領されとるんやぞ。その現実からは逃れられんやないか。いや、逃げたらいかんのや。逃げずに、向き合わな。敗戦とも、占領とも、属国とも。向き合っていくにはコトバが必要なんや。英語が不可欠なんや。オレは英語を武器とする。武器として、生きていく。生き抜いたる。負けてたまるか)

 

 「勉強会をやってみぃへんか」

 木暮が言った。その言葉で、大野は我に返った。

 「勉強会?」

 「ほうや。英語の勉強会。ま、英語クラブでもええわ。そこでネイティブの英語を勉強せぇ。ほうや。それがええわ。大野、そうしやぁ」

 木暮は自分の思いつきにだんだん興奮していく。しかし大野にはピンと来なかった。

 「英語クラブ、ですか……」

 「先生がみんなに声をかけてみるで。あ、ほうや。まずこのクラスはどうや。英語クラブ。大野と一緒に勉強したいってヤツ、おらへんか」

 木暮は快活に言った。だが、いなかった。手を挙げる者はいない。当然だ。大野とトオルの確執をいつも見せられているのだ。ここで手を挙げるということは、大野に味方するということだ。同じ組で学ぶ生徒同士、そんなことはできない。大野か、トオルか。選ぶことなんかできない。

 「ほうか」

 木暮は心から残念そうに言った。

 「そんなら他のクラスにも聞いてみるわ」

 

 大野はまったく期待していなかった。それどころか集まるはずがないと思っていた。心のどこかでは(集まってほしくない)とさえ思っていた。ところが、ふたを開けてみると『英語クラブ』に集まった生徒は25人を超えた。その中には同じクラスの生徒もいた。上級生もいた。さらに女子が約10人。

 (はぁ? おんなも英語やるんか)

 大野は驚いた。

 

 連合軍に占領されるまで、日本は「男子の国」だった。女性(婦人)には参政権すらなかった。つまり女性には選挙権も、被選挙権もない。女はなにもできないから、男がすべてを取り仕切る。男子優先。というより『男尊女卑』。その考えは少年たちにも染みついていた。

 もちろん日本の「婦人」たちは闘ってきた。明治時代末期から自らの権利を勝ち獲るべくさまざまな運動を展開していた。だが、男性中心主義の国会でことごとくつぶされる。そんな歴史を一変させたのが、連合軍最高司令官《ダグラス・マッカーサー》であった。

 

 敗戦直後の1945年10月、マッカーサー司令官は当時の内閣に対し「参政権賦与による日本婦人の解放」を命令したのである。

 さらに翌1946年11月には『日本国憲法』が制定。1947年5月3日に施行されたその『憲法』がまた、画期的なものだった。

 大野は『憲法』を授業で習った。『あたらしい憲法のはなし』という本を使って、習った。大野にとって、その授業は驚きの連続だった。

 

 たとえば「主権在民」である。日本の主権者は天皇陛下ではなく、これからは国民だというのだ。天皇陛下は国家元首から、国の「象徴」となられた。陛下に代わって国を治めるのは、私たち国民ひとりひとりだ、と。

 あるいは「戦争の放棄」。日本は永久に戦争をしない国になる、と宣言した。

 さらに驚いたのは「基本的人権」。すべての国民が法の下に「平等」であるという。その平等の項目のひとつに「性別」と書かれていたのだ。

 

 日本国憲法第14条。

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 すべて国民は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

—————————

 

 つまり憲法が「男女平等」を定めていた。だが、一般庶民の感覚はまだまだ遠い。女がなにをするのか。なにができるのか。憲法施行後1年が経っても、大野のなかにそんな気持ちが拭いがたく存在している。

 しかし、時代は「男女平等」である。学校も「男女共学」になっていた。だから英語クラブもまた、男女共学。

 

 ま、しょうがないわ。

 

 大野は自らを納得させた。それよりもこの英語クラブ。人が集まったのはいいが、いったい何をやるのか。何をやればいいのか。

 わからなかった。

 大野は独学で英語を学んできた。先生は、ラジオだ。日本放送協会の平川唯一さんだ。だから「みんな英語が勉強したいんやったら『カムカム英語』を聞けばええ。以上」。そう言って、木暮先生の思いつきを終わらせたかった。

 だが、25人を超える生徒たちの顔を見ていると、それはできないのだった。みんな純粋に英語を知りたいのだ。英語を学びたいのだ。それは大野自身とまったく変わらぬ動機だった。だからこそ拒否はできない。

 まずは、と大野は思った。みんなに英語に触れてもらうこと。ネイティブの英語に触れること。学校英語とネイティブの違いを実感すること。その機会をつくること。そうか、アメリカ人と話せたらええのに。

 

 アメリカ人と会う。会って話をする。自分の英語が通用するのか、試してみる。それは大野自身がずっと望んでいたことだった。だが、どうやったら会えるのか。それがわからなかった。

 大野は、その話を友だちにしてみた。村橋健太。英語クラブに参加した、同じクラスの男である。

 「アメリカ人と会える機会ってないんかなぁ」

 漠然とした問いかけだった。

 「英語クラブの活動として、たとえばアメリカ人に会いに行くとか」

 大野の問いかけに、村橋は答えた。

 「ウチの親父、那加町の警察署長なんやけど」

 「那加町って、あのアメリカ軍の基地があるとこやんか」

 「ほうや。ま、アメリカ人はキャンプって言っとるけど」

 「ほうか、基地のことをキャンプねぇ」

 「そのキャンプの地域を管轄しとる警察署やもんでMPがおるんだわ」

 「MPって、ミリタリーポリスやの」

 「ほうや。日本でいうなら憲兵やわ。アメリカ軍の憲兵」

 「会えるんかなぁ」

 「いっぺん親父に聞いてみるわ」

 

 翌日。村橋はさっそく答えを持ってきた。

 「親父が大野に会ったるわって。連れてこいやと」

 放課後、大野は村橋に連れられて那加町の警察署に行った。村橋の父親はあいさつもそこそこに席を立つと、大野と村橋を伴ってMPの責任者のところへ向かった。

 憲兵大尉。周囲は《キャプテン》と呼んでいた。見上げるほどの大男である。巨大な赤ら顔が両手を拡げて笑顔である。

 「おー、よく来た。歓迎するよ」

 英語である。

 大野には聞こえた。意味がわかった。しかし大野はしゃべれなかった。英語でコトバを紡ぎ出せない。

 《キャプテン》の隣には通訳がいた。そこで大野は日本語で訴えた。英語の勉強のこと。英語クラブのこと。アメリカ人のネイティブな英語に触れたいこと。

 「なんだ、そんなことか。だったらキャンプに来ればいい。学校に迎えのバスを出すよ。英語クラブのメンバー、みんなで乗って来ればいい。なんの問題もないさ」

 《キャプテン》は笑顔のまま、即答した。

 ぶつかってみれば、簡単なことだった。日程は後日、村橋の父を通じて知らせる。その日、学校で待っていればバスが行く、と。

 

 11月初旬。空は晴れ渡り、まさに小春日和である。空気は澄んで、きんと冷えていた。

 最後の授業が終わったころのことだった。村橋が突然、大声をあげる。

 「おい、大野、来たぞ」

 あわてて大野は窓際へ駆け、校庭を見下ろす。校門から大型バスが入ってくるのが見えた。青い車体の腹に、大きな赤い十字が描かれている。

 「わっ。ホントに来た」

 思わず声が出る。同時に、生徒たちが窓側に殺到した。

 なんやあれは、アメリカか。赤十字やないか。

 みんなで見ていると、バスから金髪の女性がひとり降りてくる。つづいて日本人の男性。あの憲兵隊の通訳だ。ふたりは連れだって校長室の方へ向かっていく。

 

 しばらくすると、先生が教室に入ってきた。

 「英語クラブの人は行きなさい。迎えが来とるぞ」

 教室はもう大騒ぎである。

 大丈夫か。アメリカやぞ。殺されんか。おい、女も行くんか。捕虜になるんやないぞ。

 トオルだけがみんなに背を向けている。

 大野の胸は高鳴った。自分の鼓動が聞こえるようだ。村橋を見ると、顔色が悪い。女子はもっと緊張している。

 

 校舎の1階出口で英語クラブのメンバーを揃えると、大野は先頭に立ってバスへ向かった。

 バスの乗り口には、あの金髪女性が待っている。

 近づくにつれて、大野の鼓動はさらに早くなる。

 (えっと、英語や。あいさつや)

 

 「How do you do. My name is Yoshio Ohno. I’m glad to see you.」

 言えた。

 すると白人女性は目を丸くして、顔全体に笑みをひろげた。

 「Oh,Mr.Ohno. You speak English very well. Amazing !」

 そう言って女性は大きく手を拡げ、バス前方の乗り口に大野たちをいざないながら言った。

 「Welcome to United States !」

 

 その一言から、大野の人生は大きく展開していくことになる。

 

つづく

 


 

 

☆参考文献

 

『超訳 日本国憲法』池上彰 新潮新書

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店