美容師小説

美容師小説

-­­第37話-­【1953〜1954年 ロンドン】 『ミスター・ティージー・ウィージー』

 空は真っ青に晴れ上がっていた。

 ロンドンのトップサロン『ハウス・オブ・レイモンド』は、9年前と同じ場所に存在していた。ロンドンではめずらしい快晴の空も、あの日と同じだ。違うことがあるとすれば、戦争が終わっていること。もう空襲警報は鳴り響かない。壊れた建物はきれいに修復され、がれきも撤去されていた。

 

 9年前。16歳のヴィダルはここを訪れた。ミスター・レイモンドに会って、採用してもらうためだ。ところが、レイモンドには会えなかった。ヴィダルの前に立ちはだかったのは、受付の女性だった。

 

 「もし、あなたがヘアドレッサーの仕事をお探しであれば、お薦めしたいことがひとつあります。いいですか。ここウエストエンドで仕事を探す前に、あなたはまずコトバを勉強すべきです」

 門前払いだった。女性はヴィダルの下町訛り(コックニー)を問題視したのだ。

 

 その日から、ヴィダルは『英語』の勉強に取り組んだ。イーストエンド(下町)の仲間たちにからかわれながらも、正統な『英語』を一生懸命学んだ。

 先生は、ラジオだった。アナウンサーが話す『英語』を、ヴィダルは聴いて真似をした。それから9年。いろいろなことがあった。

 技術を学ぶためにサロンを転々とした。ユダヤ人の国をつくるため、イスラエルに行って戦った。コンテストにチャレンジし、いくつもの賞を獲った。パリに行ってメルと出会った。建築やアートを学び、モダニズムの世界観に影響を受けた。

 『建築は因習のなかで窒息している』

 メルから教わったコルビュジエの言葉が、いまも頭のなかで響いている。

 「ヘアスタイルも、因習のなかで窒息している」

 

 変革が必要だ。そう信じていた。ヘアスタイルには変革が必要だ。

 世の中を変える。そう決意していた。美容界にも変革が必要だ。

 

 そのために最良の師となる美容師。それがミスター・レイモンドだった。今や英国ナンバーワンと評されるレイモンド。毎週金曜日には自らのテレビ番組で女性たちを華麗に変身させていく。

 レイモンドの特徴は、ハサミひとつでヘアスタイルをつくりあげること。スタイリングの最後に、レイモンドは必ずちいさなヘアピースをつける。そのヘアピースのことを『ティージー・ウィージー』と呼ぶ。そこでレイモンドは英国中でこう言われるようになっていた。

 「ミスター・ティージー・ウィージー」。

 

 

 ヴィダルは『ハウス・オブ・レイモンド』の扉を開けた。受付は正面。そこには魅力的な女性が笑顔で立っていた。

 「いらっしゃいませ」

 9年前とは別の女性だった。

 「こんにちは」

 ヴィダルも笑顔で話しかけた。

 「私はヴィダル・サスーンと申します。このアルバマール通り沿いの『デュマス』でヘアドレッサーをしておりました。ぜひミスター・レイモンドにお目にかかりたいのですが、ご都合のよろしい日程を教えていただけませんか」

 ていねいに言い切った。

 女性はより一層の笑顔になって、こう言った。

 「かしこまりました、ミスター・サスーン。少々お待ちくださいませ」

 拒否は、されなかった。女性は優雅に背を向けるとサロンの奥へと歩いて行った。

 

 女性は、しばらくして戻って来ると笑顔でこう言った。

 「本日の営業後であればお会いするとレイモンドが言っております。ですから20時くらいにまたお越しいただけますか」

 「承りました。それでは20時にまいります」

 

 アポイントメントはあっさり取れた。ヴィダルは20時になるまで、ピカデリー・サーカス(※)の書店に行って時間をつぶした。『バウハウス』や『ミース・ファン・デル・ローエ』、『ル・コルビュジエ』の本はいくつもあった。

 

 書店の楽しさは、子どものころ継父のネイサン・Gに教わっていた。ネイサンは言ったものだ。

 「本を開いてごらん。そして匂いをかぐんだ。君たちもいつかこれを読める歳になる。そのとき、本からはたくさんのメッセージを受け取れるようになる。それまでは、まず表紙の美しさを楽しみなさい。それから、本の匂いを覚えるんだ」

 まさに、ヴィダルは本からたくさんのメッセージを受け取っていた。本は知識の宝庫であり、未来への指針だった。ヘアスタイルとは一見、なんの関係もない書物からでもたくさんの示唆が得られる。いやむしろアートや建築、写真やファッションの本こそが、あたらしいヘアスタイルのヒントを提供してくれるのだ。

 [興味のアンテナを立ててさえいれば、あらゆる情報や現象がそのアンテナに向かって飛び込んでくる]

 それがパリで経験し、学んだ事実だった。

 

 

 20時きっかりに、ヴィダルは再び『ハウス・オブ・レイモンド』の扉を開けた。すぐに奥の事務所に通され、ミスター・レイモンドがヴィダルを迎えた。

 

 「ハイ、ヴィダル」

 レイモンドは片手を上げて、歓迎してくれた。ロイヤルブルーのスーツ。真っ白なシャツに真っ赤な蝶ネクタイ。胸ポケットからシルクのハンカチーフをのぞかせている。折り方はツインピークだ。さらにフラワーホールには、文字通り生花が挿してある。

 いかつい体軀。ギョロリとした眼。大きな鼻。口ひげ。

 

 圧倒的な存在感だった。レイモンドと初めて向き合ったヴィダルは、気圧されて思わず後ずさりしそうになった。

 

 「さて、ヴィダルくん。君はどうしてそんなに地味なスーツを着ているのかね」

 いきなりレイモンドは質問してくる。

 「あ、これ地味ですか。いや、とくに意味はありません」

 「そんなくすんだ色では未だにアルバート殿下の喪に服しているみたいじゃないか」

 

 [アルバート殿下とは、ヴィクトリア女王の夫のことか。たしか今から約100年前。19世紀の話じゃないか]

 ヴィダルが戸惑っていると、レイモンドはこう言うのである。

 「もっと楽しもうよ、ヴィダルくん。ぼくのこの服はね、さなぎから蝶への成長の象徴なんだ」

 

 変わった人だということは、テレビを観ていてわかっていた。服装も言動も、いつもエキセントリック。恥ずかしいという感情を放棄しているとしか思えない。たとえば王室所有のアスコット競馬場に出かけたときは、上下ともにピンクのモーニングスーツを着ていた。その姿はテレビのニュースで取り上げられ、新聞をにぎわした。

 そんな男が、ヴィダルの目の前でスーツの話をしている。

 

 「君はスーツをどこでつくっているんだい?」

 「いえ、つくったことはありません。既製服を買っています」

 「ふん。そうか。ではもっと稼がなくてはいかんな。でも言っておくが、いいスーツを着るから稼げるんじゃないぞ。稼ぐために、いいスーツを着るんだ」

 そんな話が延々とつづいた。

 

 気がつくと、2時間が過ぎていた。美容とはあまり関係のない話が多かったが、最後にレイモンドは聞いてきた。

 「で、君はここで働きたいのかな?」

 「はい」

 「では週末にもう一度ここに来て、テストを受けてくれたまえ」

 

 

 ヘアカットと、仕上げのテストだった。まずハサミで女性の髪をカットして、シェイプをつくる。そのあとパーマをかけ、髪に動きをつける。

 パーマは、飛躍的な進歩を遂げていた。戦後、アメリカから入ってきた『コールドパーマ』は、いわゆる『電髪(※)』から女性と、そして美容師を解放した。

 

 『電髪』といえば、ヴィダルは大失敗をした経験がある。(第10話参照)

お客さまのロングヘアに、たくさんの電熱ロッドを巻き付けてスイッチを入れたまま、空襲警報に促されて避難所へ避難してしまったのだ。警報が解除されてフロアに戻ると、女性の美しいロングヘアはほとんどが焼け落ちてしまっていた。

 

 『コールドパーマ』は、電熱ロッドを必要としなかった。薬液によって髪のかたちを変えることができるのだ。

 ヴィダルはショートヘアをつくり、パーマで髪を動かした。できあがったスタイルは、それほど革新的ではなかった。だが、ヴィダルは合格した。翌週から、ヴィダルは『ハウス・オブ・レイモンド』で働くこととなった。

 

 『デュマス』時代のお客さんには辞めることを告げなかった。それがヴィダルの流儀だった。採用してくれたサロン。たくさんのことを教えてくれたサロン。だからこそ、お客さんを連れて出て行くなんてことは許されない。そう思っていた。だからサロンを移るたびに、ヴィダルはゼロからお客さんを獲得していくのだった。

 幸いなことに、『ハウス・オブ・レイモンド』にはお客さんを連れて行く必要はなかった。レイモンドを求めて、毎日たくさんの女性たちが列を成すのだ。

 

 レイモンドの技術は画期的だった。まず、ハサミしか使わない。レザー(※)も、セニングシザーズ(※)も使わない。レイモンドはちいさなハサミでヘアをカットして、スタイルをつくりあげる。その動作を、ヴィダルは真剣に見た。見て、真似しようとした。

 ハサミを毛束に細かく入れていく。その手法は、パリでメルの髪を切ったときにヴィダルもやってみていた。ところが、レイモンドのテクニックはスピードがまったく違うのだ。

 どこに差があるのか。ヴィダルはレイモンドの手の動きを見つめる。

 わからない。それほどレイモンドの手と、手首の動きは俊敏なのだ。しかも、レイモンドは女性の骨格に合った、理想的なシェイプを一瞬で見つける才能があった。見つけたシェイプに向かって、レイモンドは迷うことなくハサミを動かす。動かしつづける。するといつの間にかヘアスタイルは、その女性にぴったりのかたちになっていくのであった。

 

 ヴィダルは懸命に真似しようとした。あの手首の動き。ハサミの動き。その角度。

 レイモンドが不在のときは、スタッフの仕事を見た。たとえばもう10年も勤めているルイス・スピノザ。彼もハサミでシェイプをつくる。レイモンドとは違った手の動き。そして、違ったヘアスタイル。それもまたヴィダルの感性を揺さぶるのであった。

 

 アドルフ・コーエン先生のもとで、美容師の修業を始めたのは14歳のときだった。それから11年。途中、ブランクもあったがヴィダルは美容師をつづけてきた。たくさんの師匠と出会い、たくさんの技術を学び、たくさんのお客さんと出会った。しかし、それでもヴィダルは自信が持てなかった。コンテストでは賞もたくさん獲った。それでも満たされることはなかった。

 [ぼくはまだまだ未熟だ]

 [こんな技術では、世界は変えられない]

 だから、学んだ。学びつづけた。『ハウス・オブ・レイモンド』は、ヴィダルにとって格好の学舎だった。

 

 

 採用されて1年が経った。それでもヴィダルは学びつづけていた。レイモンドの技術はかなり再現できるようになっていたが、ヴィダルはまだまだ足りないと思っていた。

 

 レイモンドは時々、スタッフを事務所に呼んだ。そこにはワインやスコッチウイスキーが用意されている。レイモンドはスタッフと語り合うことを好んだ。あたらしいデザイン。あたらしい技術。あたらしいアイデア。そんなディスカッションが一対一で、酒を酌み交わしながらつづくのである。

 ヴィダルもよく事務所に呼ばれた。その時間は、ヴィダルにとって至福の時だった。レイモンドの斬新な発想が、ヴィダルを刺激しつづけるのだ。だからその日も、きっといつもと同じような話だろうと思っていた。

 

 「さて、ヴィダル。君はここに来てどのくらいになる?」

 高級スコッチウイスキーをグラスに注ぎながら、レイモンドは聞いた。

 「はい。ちょうど1年になります」

 「カーディフにあるハウエルズというデパートのなかに、サロンをオープンする」

 ビジネスの話だった。カーディフといえば、ウエールズ(※)の首都だ。

 「そのサロンのジュニア・パートナーにならないか」

 それがレイモンドの、ヴィダルに対するオファーだった。

 ジュニア・パートナー。それは店長を飛び越えて、経営陣の一員になるということだった。

 [なんと、レイモンドはぼくのことを認めてくれている]

 

 「ありがとうございます。喜んで、カーディフにまいります」

 「そうか。では明日にでも一度、行って来なさい。向こうにはもうひとりのパートナー、トニーがいる。それに一緒に働くスタッフも全員、紹介しておきたいんだ」

 「承知しました。では明日、カーディフへ向かいます」

 

 カーディフのデパート『ハウエルズ』で、トニーが待っていた。サロンはまさに改装工事中。その様子を見ながら、スタッフ全員にヴィダルを紹介してくれる。

 初めて訪れたカーディフは、すばらしい街だった。しかもヴィダルは[自分が必要とされている]という実感にも酔っていた。情熱とやる気が、自然に高まってくる。

 

 

 その日のうちにロンドンに戻り、翌朝一番でレイモンドと会った。ヴィダルには確認したいことがふたつ、あった。

 「名刺のことなんですが、アーティスティック・ダイレクターの肩書きを使ってもいいですか。Vidal – Artistic Director, Raymond’s in Cardiff という名刺をつくろうと思うんです」

 レイモンドは間髪を入れずに答えた。

 「No。それは会社のポリシーとは合わない」

 「そうですか。わかりました。ではもうひとつ。もしぼくがあたらしいヘアスタイルをつくり出したら、写真を撮って作品にして、ぼくの名前を入れてもいいですか?」

 するとレイモンドは不機嫌そうに答えた。

 「No。それも会社のポリシーとは合わない」

 

 名刺の件は、仕方ないと思えた。しかし「作品」については譲れなかった。自分がつくったヘアスタイルに、自分の名前を入れられないとは……。

 [どうしてだ。パートナーだったらそのくらい認めてくれてもいいじゃないか]

 そう思ったのだ。思ってしまったのだ。

 [だったらここにはいられない]

 ヴィダルの頭は高速回転を始めた。『ハウス・オブ・レイモンド』のマネージャーやスタッフたちは、ヴィダルがカーディフを訪れたことを知っている。もしカーディフへの転勤を断るとすれば、もう戻れない。『ハウス・オブ・レイモンド』そのものを辞めるしかなくなるだろう。しかも、今すぐに。

 

 結局、ヴィダルは『ハウス・オブ・レイモンド』を去ることになった。しかしロンドンには、『ハウス・オブ・レイモンド』以上のことを学べるサロンはもうない。

 ヴィダルはロンドンで一番の、いや英国でトップのサロンを辞めるのだ。ならばその後の道はどこにある……。

 

 道は、1本しかなかった。

 

 

つづく

 

 

※ピカデリー・サーカス

ロンドン・ウエストエンドの中心にある広場。商業施設や劇場などが集中している。

 

※電髪

“電髪機”は電源部分と、そこからぶら下がるたくさんのコード、さらにコードの先端についた金属の筒(ロッド)でできている。スイッチを入れると、金属のロッドが熱くなる仕組みだ。パーマをかけるには、お客の髪にあらかじめ薬剤を塗布。それを少しずつ毛束にして、電熱ロッドに巻き付ける。その1本1本に、カバーをしてスイッチオン。薬剤と電熱効果でウエーブをかたちづくる。

 

※レザー、セニングシザーズ

『レザー』はかみそり。パーマやセットをするために髪を整える。それがレザーの役割だ。

『セニングシザーズ』は、毛量調節のためのハサミ。刃の部分はのこぎりのようにギザギザになっている。

 

※ウエールズ

英国(グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国)を構成する4つの国のひとつ。グレートブリテン島の南西部に位置する。

 

 

 


 

 <第38話の予告>

New Bond Street 108番地。間口の狭いビルの3階に、ヴィダルは自分のサロンをオープンした。1954年。しかしお客さんは来なかった。ヴィダル・サスーンの名前は、ロンドンのほとんどの人が知らなかった。

 


 

 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

 

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