美容師小説

美容師小説

-­第40話-­【1954年 ロンドン】 「クレイジーな美容師がいる」

 ヴィダルのサロンは軌道に乗った。毎日、お客さんであふれた。

 昼間、ヴィダルはひとりでお客さんの髪を切った。シャンプーや、その他の仕事はアシスタントのヒューとマリアに任せる。また、ヘアカラーはピーター・ローランスだ。

 ピーターは独特のセンスを持つ逸材だった。カラーのセンスはもちろん、その服装も特異だった。

 

 ヴィダルの仕事着はスーツである。ドレスシャツにネクタイ。ピカピカに磨いた革靴。最初に勤めたサロン『アドルフ・コーエン』の時代から変わらぬ、それが“ユニフォーム”である。ヴィダルの服装に合わせて、アシスタントのヒュー・ハウイもスーツで出勤してくる。ところが、ピーターは違う。つねにエキセントリックな服装でやってくるのだった。

 ある日、ピーターはピンクのパジャマで出勤してきた。しかもジッパー代わりに、安全ピン1個。これにはヴィダルも笑ってしまう。

 「ピーター……」

 そう言って、ヴィダルはレセプションの棚から安全ピンをもう1個取り出すと、ピーターに渡した。

 「なかが見えそうだよ。だけどこれでだいじょうぶ」

 

 

 「だいじょうぶ」ではなかったのが、カラー剤である。市場に出回るヘアカラー剤では、お客の求める色が出せないのだ。ピーターはいつも嘆いていた。こんなカラー剤ではお客さんの要望に応えられない、と。

 カラー剤だけではない。シャンプー剤だって同じだった。そこでヴィダルはヒューやマリアと一緒に、バケツの中で独自にシャンプー剤をつくったりしていたのだ。

 

 そんなある日のこと。ピーターのお客さんがヘアカラーを求めてやってきた。時刻は予約ぴったりの午前9時。ピーターはお客の髪に指を通して、その状態を確かめながら聞いた。

 「イメージしているカラーはありますか?」

 するとお客は言った。

 「ローランス、今日はグレイ・ホワイトの髪にしたいの」

 会話が聞こえていたヴィダルはちらっとその髪を見て、思った。

 [無理だ]

 髪はダーク系で、根元を見ても白髪はない。これをグレイ・ホワイトにするのは無理だ。

 [さて、ピーターはどうやって断るのだろう]

 そう思っていると、ピーターは笑顔で言ったのだ。

 「承知いたしました、マダム」

 

 [えっ]

 ヴィダルは思わず声をあげそうになった。

 [おいおいピーター、だいじょうぶか]

 

 夕方。閉店時間が近づいていた。それでもお客はそのまま同じ椅子に座っている。その間、お客のもとには4杯の紅茶が運ばれた。鏡の前に置かれたビスケットの袋は空になっていた。時計を見ると、夕方の5時半だ。

 「ねぇ、ローランス。私は一日中ここに座っているけど、私のヘアはまだグレイ・ホワイトじゃないわ」

 するとピーターはこう答えた。

 「マダム。たしかに。だけど勘定書を見たら、いっぺんに白髪になりますよ」

 

 

 美容業界は夜明け前だった。カラー剤もシャンプー剤も戦前の延長線上にあった。それでもピーターはくじけなかった。独自の理論とセンスで、手に入るカラー剤をさまざまに調合しながら、あたらしいヘアカラーを創造していったのである。

 彼はその成果をスタッフに惜しみなく開放し、共有する。同時に、お客からも絶大な支持を集め、その名声を高めていくのだった。

 

 やがてサロンは、ピーターのカラーを求めるお客さんであふれるようになってきた。

 するとある日、サロン全体が驚くことが起こった。なんとピーターが渋い縦縞のスーツで出勤してきたのだ。ユニークな言動と服装に慣れっこになっていたお客さんも、その姿に驚いた。

 サロン全体の注目を独り占めにしながら、ピーターは笑顔でヴィダルのもとに歩み寄り、こう言った。

 「これ、返しますよ」

 手のひらには1個の安全ピンが乗っていた。

 

 

 忙しくなった。ピーターのお客はヴィダルのカットを求め、ヴィダルのお客はピーターのカラーを求めた。ひっきりなしに訪れるお客さんに満足してもらうため、ヴィダルはもちろんスタッフ全員がめまぐるしく動いた。時間はあっという間に過ぎていく。開店したと思ったら、もう夕方になっていた。

 そんな昼間を過ごしたあとで、ヴィダルは毎夜、アシスタントに技術を教える。疲れはまったく感じなかった。それより楽しくてしょうがないのだ。自分のサロンが成功へと向かっている。スタッフも日々成長している。その実感がなによりうれしかった。

 エネルギーは自然に湧いてきた。だからまったく苦にならない。[だが]、とヴィダルは一方で考えていた。

 [いつか、ヘルプが必要になるだろう]

 [自分はもとより、スタッフたちにもかなりの負担がかかっているに違いない]

 みな勤勉で、真面目なスタッフたちだった。だからヴィダルが「教える」と言うと、いつまでも付き合う。サロンに残る。そんな毎日が、いつまでもつづくとは思えなかった。

 

 

 そんなある日のことである。レセプションにひとりの男が現れた。ヴィダルはその姿を見るや駆け寄った。

 「やぁ、マイク。マイクじゃないか」

 マイク・コーネル。

 ヴィダルは『ハウス・オブ・レイモンド』を辞めた直後、“教育”で稼ぐ時期を過ごした。友人のロバート・ザックハムのサロンに行って、毎週カット技術を教えたのだ。マイクはそのときの“生徒”のひとりだった。

 「ヴィダル、あのときはありがとう。とっても勉強になったよ」

 聞けば、マイクはその後『フレディ・フレンチ』という有名サロンに移り、そこで修業したのだという。

 「それでヴィダル、このサロン、スタイリストは足りているかな。もしよかったらぼくを雇ってくれないか」

 願ってもないことだった。ヘルプが必要なことは、痛いほどわかっている。マイクはそのヘルプに見合うだけのじゅうぶんな技術を持つ即戦力だ。なぜならヴィダル自身の“教え子”なのだから。

 「オーケー、マイク。ちょうど良かった。いつから来られる?」

 「今日、これからでも働くよ」

 「よし、決まりだ。みんなに紹介するよ」

 こうして、スタイリストがひとり加わった。

 

 それから数週間後のことである。やってきたのはカイゼル髭と、大きなもみあげをたくわえた男である。

 ロバート・エデレ。

 優秀なスタイリストだった。マネジメントの才能にも長けている。それは面接でわかったし、数日間一緒に働いてみて確信した。ロバートは、じつに巧みにアシスタントを動かした。

 しかもヴィダルのカット技術を学ぶため、スタイリストでありながら夜のアシスタント教育に必ず参加。休日もサロンに出てきてモデルのヘアをカットする。その姿を見て、ヴィダルはロバートにサロンの鍵を渡した。

 しばらくすると、ロバートはヴィダルのカット技術を完全に習得。それをアシスタントに教えるようになるのだった。

 「教えることは大好きなんだ。だって、それがいちばん勉強になる」

 笑顔でそう語るロバートを、ヴィダルはますます信頼するようになる。

 

 さらにもうひとり、とくべつな才能を持つ人材がやってきた。

 レオナード・ルイス。

 彼は英国一の女性美容師『ローズ・エヴァンスキー』のもとで技術を学んでいた。入社試験のつもりでモデルカットをさせてみると、髪に指を通すときの手つきがとても優雅で美しかった。さらに、とてもユニークなかたちにヘアをアレンジする。

 採用、だった。レオナードもまた、ヴィダルのカット・テクニックとその哲学を喜んで受け入れ、吸収していった。

 

 

 ヴィダルはひとつの重要なルールをつくり、それに全員が従うことを求めた。

 そのルールとは

 “サロンではコンサヴァティヴなヘアスタイルは絶対に手がけないこと”

 

 モダニズムである。ヘアスタイルのモダニズム。

 採用の際には必ず伝えた。全員で行うミーティングでも繰り返した。

 「ぼくらが持つ情熱を、才能を、アートを、すべてカットに注ぎ込むこと。カットによって、ヘアスタイルをよりシンプルに変えていくこと。そこに全力を尽くすこと。それがぼくらのルールだ。あたらしい時代の、ルールだ。どんな経歴を持つスタイリストも、チームの一員ならばルールを厳格に守ってもらう」

 

 “チーム・サスーン”の誕生である。ヴィダルは全スタッフを巻き込んで、あたらしい美容の世界へ向かって漕ぎ出したのである。

 

 

 ある日の午後のことだった。サロンのレセプションに、ミンクのコートが現れた。香水のきつい匂いがサロンに充満する。エレインがていねいに応対して、ミンクのコートを受け取ると、たくさんの宝石で着飾った婦人が現れた。

 ヴィダルがセット椅子に案内し、カットクロスをかける。コーム(櫛)とハサミを手にすると、その女性は右手を上げた。

 「ちょっと待って、ヤングマン」

 ヴィダルは動きを止めて、鏡のなかの女性を見つめる。

 「私はまだなにも指示してないわよ」

 そう言って女性は自分の髪を触りながら言った。

 「私がほしいのは“アン・シェリダン”のような大きな前髪。それから後ろはダックテイルよ。もちろんレザーでカットして」

 ヴィダルは頭がくらくらした。アン・シェリダンとは往年のアメリカ女優で、がちがちに固めたヘアスタイルで有名だ。それだけでも忌避すべきなのに、後ろはダックテイルだと? 側頭部から後頭部に向かってバックコーミングして、整髪料をべたべたにつけて撫でつけ、真後ろでピタリと左右の流れを合わせる。まさにアヒルのしっぽ。

 ヴィダルが最も嫌うヘアスタイル。これ以上、嫌いなヘアスタイルがほかにあるだろうか。もちろんルールにも合わない。むしろ逆行する。それらすべての思いをぐっと呑み込み、ヴィダルはつくり笑顔でやさしく話しかけた。

 「でも、マダム……」

 言いかけたヴィダルの言葉をさえぎって、女性は言った。

 「でも、じゃないわ。聞こえたでしょ。それが私の希望よ!」

 

 気がつくと、サロン内は静まり返っていた。

 [ルールには、従ってもらう。たとえお客さんであろうと関係ない]

 ヴィダルは毎日、スタッフに言いつづけてきた。だからこそ今、この状況にチームのメンバー全員が耳をそばだて、固唾を呑んで成り行きを見守っているのだ。

 

 その空気のなかで、ヴィダルはできるだけ厳格に言い放った。

 「マダム。申し訳ありません。あなたのご希望のヘアスタイルは、私たちはやりません」

 女性は口を開けたまま絶句した。だがそれはほんの一瞬のことで、すぐさま金切り声をあげた。

 「言われたとおりにやりなさいっ!」

 彼女から見れば、美容師は下僕のようなものなのだろう。

 ……お金を払うのは私。だから私がご主人様。あなたは下僕。ご主人様の命令には従いなさい。どうせあなたたちは労働者階級の人たちでしょ……。

 ヴィダルは毅然とした態度で言った。

 「マダム。申し訳ございません。他のサロンに行かれたほうがいいかと存じます」

 女性は怒り狂って立ち上がる。そのチャンスを逃さず、ヴィダルはカットクロスを外す。ヒュー・ハウイがいつの間にか現れ、ミンクのコートを女性に手渡した。みごとなタイミングだった。

 「ヤングマン」

 女性はヴィダルを指差しながら叫んだ。

 「あなたは救いようのないバカだわ。このとんでもなく侮辱的な扱いを、私の友だちみんなに言いふらしてやる」

 そう言い残して、女性はサロンを出て行った。

 

 

 “クレイジーな美容師がいる”

 そんなウワサが立ちはじめていた。

 “ヘアにバックコームを入れない。ブラシで逆毛を立てない。ヘアスプレーで髪を固めたりしない。ただただ、ハサミで髪をカットする。そんなクレイジーなヘアドレッサーが、ボンドストリートにいる”

 そんなウワサが、特に若い女性たちの興味をかき立てた。

 ヴィダルのサロンには、アヴァンギャルドな若い女性たちが集まってきた。少しずつ、ヴィダルの“ルール”が世の中に浸透していく。

 

 だが、なかには映画女優の写真を持ってくる女性もいた。この女優のような髪型にしてほしい、と。そんな女性には、はっきりと言うのだ。

 「あなたは全然、この女性のようには見えません。いいですか、ヘアスタイルはあなたの骨格と体型に合うものでなくてはならないんです。そうでなければ、あなた特有の美しさを引き出すことができません。他人になろうとしないでください。あなた自身が輝くんです」

 そう言って、ヴィダルはお客を大きな鏡の前に連れて行く。立ったまま全身を一緒に見て、そのバランスに合ったヘアスタイルを提案するのだ。

 

 お客が持って来た写真は、持ち帰ると言わない限りゴミ箱に捨てた。映画女優のまねをするより、その女性に合ったオリジナルなヘアスタイルを提案してあげたい。それがサロンの流儀となっていった。

 ほとんどの場合、その流儀は通用した。ただ、なかには納得できない女性もいる。その人たちのために、ヴィダルはいつも表通りにタクシーを待機させていた。タクシーは、彼女たちの要望を喜んで受け入れてくれる他のサロンに連れて行ってくれる。

 

 “クレイジーな美容師がいる”

 そのウワサは、ロンドン中に広まっていった。

 “そいつのサロンでは要望なんか聞かれない。そいつの提供するサービスをお客のほうが受け入れなければならない”

 まさしく。

 ウワサは正しかった。ヴィダルは、サロンの“ルール”を、スタッフだけでなくお客とも共有したかったのだ。

 ヴィダルはこころから信じていた。

 [結局はそのほうがお客さんにもプラスになるし、喜んでいただける]

 そう信じるヴィダルは当時、やはり “クレイジーな美容師”そのものだった。

 

 

つづく

 

 

 


 

 

<第41話の予告>

ヴィダルの“革命”は少しずつ、ロンドンに浸透していった。ヴィダルは考えていた。[あと10年は仕事に専念するだろう。10年で、ぼくはヨーロッパやアメリカでも活躍する国際的な美容師になる]。ところが、そのヴィジョンが実現する前に、ヴィダルは恋に落ちた。

 

 


 

 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株

 

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