美容師小説

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­-第42話-­【1955〜57年 ロンドン】“若者”というあたらしい世代が誕生した。

 マリー・クワントが、後に夫となるアレキサンダー・プランケット・グリーンと出会ったのは19歳のとき。“ゴールドスミス・カレッジ(※)”でイラストレーションを学んでいたころのことだった。

 同じカレッジに通うアレキサンダーは、奇抜な服装でだれよりも目立つ存在だった。たとえば絹のパジャマのトップスに、細身のヒップハンガーパンツ。あごのあたりまで伸びた長髪に、小脇に抱えた映画の台本。そしてなにより身長が190センチ近くもある大男で、カッコよかった。

 

 マリーとアレキサンダーが初めて言葉を交わしたのは、カレッジで行われた仮装舞踏会でのこと。その日、マリーは黒の網タイツ姿。そして服の代わりにカラフルな風船をいくつも身にまとっていた。

 アレキサンダーはまっすぐに歩いてくるとマリーの前に立ち、背をかがめるようにしてこうささやいた。

 「ひと目見た瞬間、きみがほしくなった」

 

 

 アレキサンダーとマリーは、いつも一緒にいた。どこへ行くのも一緒だった。

 「いつか一緒に仕事ができたらいいね」

 アレキサンダーは何度も、マリーに言った。

 

 アレキサンダーは、すぐれたイラストレーターであり、グラフィック・デザイナーであり、ジャズ・トランペット奏者だった。カレッジを卒業するとジャズバンドを結成。大学や美術学校で演奏してお金を稼いだ。

 一方、マリーは幼少のころからファッションに夢中だった。そのきっかけとなったのは、ダンスだった。

 

 

 ものごころつくと、マリーは気づいた。自分に与えられる服は従姉のおさがりばかりだということに。そのおさがりが、マリーは大嫌いだった。

 [こんな服、ちっとも自分らしくない]

 そう思っていたのだ。

 一方、もうひとつマリーを悩ませていたことがあった。それは強制的にバレエ教室に通わされていたこと。バレエで着る服といえば、レオタード。マリーはそれも好きになれなかった。

 

 ある日、マリーはレオタード姿のまま、となりのダンス教室のドアを少し開けてみた。なかをのぞくと、そこではタップダンスの練習が行われていた。

 数人の生徒たちが踊っていた。そのなかのひとりに、マリーの目は釘付けとなった。おしゃれなのだ。年のころは8歳か、9歳か。マリーより少し年上だろう。髪型はボブカット。身体をぴったりと包んだ黒いセーターに、黒の短いプリーツスカート。さらに黒いタイツに黒いエナメル靴をはいていた。

 マリーの目が吸い寄せられたのは、靴の上に咲いた白いアンクルソックスだった。そう。それはまさに“咲いて”いた。黒、黒、黒という全身のなかで、鮮やかにその存在を誇示していた。

[おもしろい。ファッションって、工夫次第でまったくあたらしい姿を見せてくれる]

 そう感じた瞬間、こんな思いが頭のなかに浮かんだのである。

 [そうだ。自分でつくればいいんだ。着たい服を自分でつくってみよう]

 マリー・クヮント、当時6歳。

 

 以来、マリーはファッションに夢中になった。母の手を借りながら、服をつくった。生地を選び、色を重ね、ミシンをかけて服をつくった。そのすべてがとってもユニークな服となった。

 ハイスクールを卒業するころ、マリーは両親にこう告げた。

 「ファッションの専門学校に進みたい」

 だが、両親は猛反対した。理由は「ファッションに未来などない」。

 

 1950年前後。たしかに英国のファッション業界には未来がなかった。世界を動かしていたのはパリのデザイナーたち。英国のファッション業界はそれを無条件で受け入れ、コピーして量産品をつくる。そんな時代だった。

 いや、反対の理由はそれだけではなかった。英国では、もともとファッションは上流階級のもので、庶民の女性には縁がなかったのだ。それどころか[ファッションに興味を持つなんて英国人らしくない]とさえ考えられていた。

 そんな国で、ファッションの専門学校に行けばどうなるか。まず、コレクションを見るためにパリに行かされる。発表された服を見て、真似て、量産品をつくる。そのための“技術”を教え込まれただろう。そういう意味で、両親の反対はマリーにとっては幸運だった。結果的には。

 

 しかしマリーは服がつくりたかった。だから両親と何度も話し合った。お互いに歩み寄り、出した結論が“ゴールドスミス・カレッジ”へ進むことだった。

 “ゴールドスミス・カレッジ”は学校というより、美術クラブのようなところだった。学生たちは好きなことに自由に取り組むことができた。

 マリーには、そのシステムがありがたかった。マリーだけではない。当時の10代には、そのやり方が合っていた。

 

 [服は自分たちのためにデザインするもの]

 “ゴールドスミス・カレッジ”では、そんな思想が行き渡っていた。パリのデザイナーを見習おうなどと考える人はひとりもいなかった。マリーも、はっきりと自覚していた。

 [私は自分のために服をつくりたい。自分と、この仲間たちのためにデザインしたい]

 つまりマーケットは、自分たち自身だった。

 

 

 時代は大きく変わりつつあった。

 第二次世界大戦が終わって10年。世の中にはあたらしい世代が誕生しようとしていた。

 それまで、世の中には“大人”と“子ども”しかいなかった。ところが1950年代になって、もうひとつのカテゴリーが生まれようとしていたのだ。それが“若者”だった。10代の学生たちは、極めて意識的にその世代を形成しようとしていた。その空気を思いっきり吸っていたマリーは、のちにファッションという手段で“若者”という層をつくり出す。

 

 一方、ヴィダルはヘアスタイルであたらしい世代を創造しようとしていた。

 ヴィダル以前、少女たちの髪型はボブカットか、ロングヘアをまとめる三つ編みやポニーテール。学校を卒業して“大人”になると、髪にはパーマをかける。あるいは上げてまとめてスプレーで固める。それが“大人になった証”だった。ところがヴィダルは、まったくあたらしいヘアスタイルを提案しようとしていたのだ。

 まげない。あげない。まとめない。かためない。

 

 ファッションや、ヘアスタイルだけではなかった。ロンドンのあらゆるシーンで、一斉に変革が始まっていた。

 たとえば演劇。まずジョン・オズボーンが『怒りをこめて振り返れ(Look Back in Anger)』という問題作を叩きつけた。翌年にはハロルド・ピンターが『バースデイパーティー』で時代を撃つ。さらにアーノルド・ウェスカーが『大麦入りのチキンスープ』を書いて、ユダヤとファシズム、共産主義とスペイン内戦に翻弄される英国人労働者の姿を描いた。

 

 英国は揺れていた。“若者”たちに大きく揺さぶられていた。従来の伝統や慣習が、“若者”たちの手で打ち破られようとしていた。支配層と被支配層。上流階級と労働者階級。旧来の伝統や因習に、“若者”たちが拳を振り上げた。

 

 ロンドンには“怒り”が充満していた。

 悲惨な戦争がようやく終わった。ファシズムとの闘いに勝利したと思ったら、今度は原子爆弾の恐怖が襲ってきた。そして気づいたときには“東西冷戦”が始まっている。そんな時代に合わせて、科学者を育てようとする国に、多くの“若者”が「No!」と言った。なぜなら科学が行き着く先は「武器」であり、「原子爆弾」であり、「最終戦争」だと直観していたからだ。

 暗く、苦しい戦後不況の10年。鬱屈した空気が、“若者”たちのエネルギーを抑圧してきた。しかし、ついに“若者”たちは気づいたのだ。

 [そうだ、自分たちが始めよう。あたらしい時代をつくろう。自分たちが“支配層”から主導権を奪うのだ]

 

 一方の“大人”たちは意気消沈していた。戦争で疲弊し、こころを病み、傷を負っていた。“若者”たちの反乱に、干渉する元気さえなかった。

 そんな状況のなか、“若者”たちが掲げたあたらしい時代精神は、こうだ。

 「ほしいものがあるのなら、自分たちでつくる。手に入れる」

 マリーとアレキサンダーがほしかったもの。それは芸術、演劇、映画、デザイン、ファッション、料理、セックス。そして音楽とダンスだった。

 

 

 1955年。アレキサンダーは父親から5000ポンドを相続した。

 「これを資金として事業を始めよう」

 アレキサンダーはマリーに提案した。そして友人のアーチー・マクネアにも。当時、アレキサンダーとマリーはともに21歳だった。

 

 アーチーは、すでに経営者だった。チェルシー地区で、エスプレッソコーヒーのバー『ファンタジー』を開いていた。またその上階にはスタジオを所有。フォトグラファーを何人か雇って、写真撮影のビジネスにも取り組んでいた。顧客は上流階級の親たち。溺愛する娘を社交界にデビューさせるための写真を撮影する、というビジネスだった。

 

 アレキサンダーは料理も得意だった。そこでチェルシー地区の目抜き通り、キングス・ロードの一角にあったマーカム・ハウスの地下で、『アレキサンダーズ』というレストランを始めることにした。マリーは同じビルの1階のフロアでブティックを開く。マリーは、ブティックに『バザー』という名をつけた。

 

 『バザー』は、開店当初から評判になった。

 商品は、マリーが仕入れてきた服やスカーフ、アクセサリーなど。加えて友人たちに着せたい服や、自分が着たいと思う服をマリーがデザイン。オリジナル商品として展示した。

 

 たとえばヒップハンガーパンツは、アレキサンダーのためにつくった。さらにマリーはスカートもヒップハンガーでつくってみた。するとより短く、よりシャープなスカートができた。英国産のクルマ『Mini』が大好きだったマリーは、その短いスカートを『ミニスカート』と呼んだ。

 

 ミニスカートは、大ヒットとなった。やがてキングス・ロードはミニスカートの女性たちが歩くキャットウォークとなる。道の両側には、新聞や雑誌のフォトグラファーがびっしりと貼り付き、シャッターを押しつづけた。

 

 『バザー』には、ミニスカート以上に売れたヒット商品がある。女性たちが列に並んでも買いたがった商品。それは『ピーターパン・カラー』。子ども服や女性服に多く見られる丸形の襟を、マリーはビニールでつくった。それを丸首セーターの襟ぐりにつけると、女性たちの顔がいっそう引き立つのだった。

 

 『バザー』が提案するファッションは、『ヴォーグ』誌でも取り上げられた。なかでも編集者のクレア・レンドルシャムはマリーのセンスを絶賛。“若きアイデア”というページに写真入りで何度も、大きく紹介するのだった。

 

 マリーは有名人になった。オリジナル商品も飛ぶように売れた。それでも、マリーは毎日のように街を歩き、おもしろいデザインや風変わりな素材を探し求めた。

 

 そしてあの日がやってくる。

 

 ボンドストリートを歩いていたマリーは、通りの向かいにあるビルの3階に不思議な写真が3枚、掲示されていることに気づいた。それは見たこともないヘアスタイルだった。

 一瞬、足を止めたマリーは、そのまま通りを横切ってそのビルの前に立ち、狭いエレベーターを使って3階に上がっていく。

 エレベーターの外扉を手で開けると、そこにはまったくあたらしい世界が拡がっていた。

 

 

 

つづく

 

 

 

※ゴールドスミス・カレッジ

ロンドン大学を構成するカレッジのひとつ。学生も講師も、それぞれ好きなことに取り組んだ。絵画、彫刻、イラストレーション……。なかにはアップリケの作品づくりに没頭する講師もいた。学生は学びたいことがあれば、その分野の講師に自らアプローチする。それがゴールドスミス・カレッジのルールだった。

 

 

 


 

 

<第43話の予告>

マリー・クワントとの出会いは、ヴィダルの“革命”に決定的な影響を与えた。マリーはファッションショーのモデルのヘアをすべてヴィダルに任せた。マリーのつくり出す前衛的なファッションの上に、ヴィダルのつくる革命的なヘアが乗った。こうしてマリーとヴィダルは二人三脚で、“スウィンギン・シックスティーズ”をリードしていく。

 

 

 


 

 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

『MARY QUANT』マリー・クワント著 野沢佳織訳 晶文社

『スウィンギング・シックスティーズ』ブルース・インターアクションズ刊

『ザ・ストリートスタイル』高村是州著 グラフィック社刊

 

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