美容師小説

美容師小説

-­第43話­-【1957年 ロンドン】“スウィンギング・ヘア”が誕生した。

 マリーは、エレベーターの外扉を開いてサロンに入った。すぐ目の前にレセプションがあったが、そこにたどり着く前に固まってしまった。サロン内で繰り広げられるパフォーマンスに圧倒されて、エレベーターの扉の脇から動けなくなったのだ。

 

 『ヴィダル・サスーン』という名のヘアドレッサーが、どの人であるかはすぐにわかった。他を圧倒するオーラを放ちながら、イスに座った女性の周囲を踊るように動き、髪を切っている。

 フロアには、彼が切った髪がたくさん散っていた。その髪を、アシスタントを務める人がほうきで掃き集める。だが次の瞬間には再び、髪の束がフロアに散る。みるみるうちに女性の髪は短くなっていく。

 その様子を見ながらマリーは思った。

 [私も切ってもらいたい]

 

 

 マリーの髪型はポニーテールだった。長い黒髪を、後頭部のやや高い位置でひとつにまとめて垂らしていた。

 かなり長い間、マリーは同じ髪型をつづけていた。理由はとくになかったが、いつもその髪型だった。

 

 ファッションのことは、だれよりも考えていた。だけど髪型のことを考えたことはあまりない。気に入った髪型というものが自分にあるのかどうか、マリーにはわからなかった。

 

 美容室には行かない。行く必要も、理由もないからだ。髪は自分で整える。あるいはカレッジの友だちに揃えてもらう。マリーの仲間たちはみな、お互いにハサミを使って髪を切り合った。切るといってもほんの少し。揃える程度だ。それで満足しているわけではなかったが、美容室に行くよりマシだった。

 美容室に行けば、パーマを勧められる。かけるのが当然であるかのように。そして間違いなくスプレーで固められる。それは彼女たちから見れば「おばさま」ヘアだった。結婚して、家庭に入って束縛されるハウスキーパーの髪型だった。絶対に自分たちの髪型ではない。美容師が、気に入る髪型を提供してくれるとは到底思えなかった。

 

 しかし、目の前で踊るサスーン氏はどうだ。ちいさなハサミを細かく入れて、女性の頭をよりシャープに、クールにデザインする。そう。デザインだ。彼は髪をデザインしている……。そう思った瞬間、マリーはがぜん興味を持った。好奇心がむくむくと湧き上がってくる。

 [この人に、私の髪を任せてみたらどうなるだろう]

 マリーはいつの間にか自分がわくわくしていることに気づいた。

 

 

 やがてヴィダルがひとりの女性を解放する。女性は鏡の前で一度、首を振った。髪は動き、そして元の位置にぴたりと収まった。その女性は笑顔になって、レセプションに向かって歩いてきた。

 [あら、女優のジル・ベネットだわ]

 マリーは思い出した。

 [たしか最近、ゴッホ(※)の生涯を描いた映画に出演していた]

 

 女優は会計を済ませてエレベーターのほうへやってくる。マリーが見つめていると、こう声をかけてきた。

 「あなた、まさかその髪を切る気?」

 マリーは肩をすくめて、短く答えた。

 「えぇ」

 すると女優はぴしゃりと言ったのだ。

 「おやめなさい!」

 その一言で、マリーの決意は逆に固まった。

 

 マリーは女優と入れ替わるようにレセプションに向かい、こう告げた。

 「今日はお金の持ち合わせがないので、また来ます」

 レセプションは答えた。

 「ありがとうございます。失礼ですがお名前をいただいてもよろしいですか」

 「あ、マリーです。マリー・クワント」

 レセプションは驚いた。

 「マリー・クワントって、あのバザーのマリー・クワントさん?」

 「ええ、そうです」

 

 

 マリー・クワントがお客としてやってきたのは、その2週間後のことだった。

 狭いエレベーターが、2週間前と同じようにマリーを運んできた。唯一、違ったのはエレベーターの外扉を開けたのが男性だったということ。身長190センチに近い大男が最初に降りてきた。つづいて小柄なマリー。

 レセプションはマリーに気づくと、すぐにヴィダルを呼んだ。

 

 「いらっしゃいませ、クワントさん。はじめまして。お待ちしておりました。先日はごあいさつもせずにすみませんでした」

 いつものように濃紺のスリーピース・スーツをきちっと着込んだヴィダルは、ていねいに言った。ほぼ完ぺきなクイーンズ・イングリッシュだ。

 「はじめまして、ミスター・サスーン。今日はたのしみにしています」

 ヴィダルは微笑むと、傍らに立つ大男について尋ねた。

 「こちらは?」

 「夫のアレキサンダーです」

 「あぁ、そうでしたか。これは失礼いたしました」

 そう言って、ヴィダルはアレキサンダーに右手を差し出した。

 「ミスター・サスーン。ぼくも楽しみにしていますよ」

 そう言って、アレキサンダーはヴィダルの右手をしっかりと握った。

 「私のことはヴィダルと呼んでください」

 「ありがとう。ぼくのことはアレキサンダー、と」

 「私のことはマリーと呼んで」

 「それではマリー。こちらへ」

 ヴィダルはマリーを鏡の前に案内した。アレキサンダーはそのあとを付いてくる。

 「さて、マリー、今日はどうしましょうか」

 ヴィダルはマリーのポニーテールをほどきながら尋ねた。

 「さぁ。どうかしら。あなたは私をどうすればいいか、きっとわかっているはずだわ」

 ヴィダルはマリーの髪に触れて髪質を把握し、頭に触れて骨格を確かめていく。視線は鏡に映ったマリーの顔に注がれている。

 ヴィダルの中指が、マリーの頬に触れる。ヴィダルは自分の指で、耳と頬骨、眉の位置や顎までの距離を測った。そうしながら、ヘアスタイルのイメージをつくり上げていく。

 つづいてマリーのロングヘアをやさしくつつみ、上へ持ち上げて首の長さを確認し、首筋やうなじなどの様子を探る。

 

 イメージが固まると、ヴィタルは上着を脱いだ。袖口をカフリンクス(※)で留めた白いドレスシャツに濃紺のベスト。ネイヴィブルーのネクタイ。右手にハサミを持ち、左手にコームを持ってヴィダルは言った。

 「切りますけど、いいですか」

 「もちろん」

 

 カットが始まった。マリーの長い黒髪がフロアに落ちていく。アレキサンダーはその様子を、タバコを片手に興味深く見つめる。

 ボブヘアがかたちづくられていく。特徴は前髪だ。ヴィダルは何度も前髪をコームで梳かし、美しく揃える。そうしておいて、右手のハサミに左手を添えるようにして真横に構え、まっすぐに切っていく。マリーの、大きな瞳のすぐ上。眉の下。そこが前髪のラインだ。真横に、まっすぐに、まっすぐに。

 やがて前髪のラインは、頭頂部から落ちてくるストレートヘアと融合し、目の真横で吸収される。

 前髪もまっすぐなら、後ろの髪も床と平行にまっすぐだ。全体の長さはちょうどマリーの唇の位置に定められる。

 

 マリーは、その大きな瞳をしっかりと見開きながら、自分のヘアスタイルがつくり出されるプロセスを観察していた。鏡のなかには、それまで自分自身でも想像したことさえない、あたらしいマリーがいた。

 [すごい]

 心の奥底から、不思議な感情が湧き上がってくる。涙が出そうだ。

 [すごい]

 もう一度、思った。

 と、そのときだった。

 マリーは耳たぶに鋭い痛みを感じた。

 ヴィダルは何事もなかったように振る舞う。だが、アシスタントはペーパーを持ちだし、マリーの耳たぶに当てる。

 切ったのだ。ヴィダルがマリーの耳たぶをハサミで切った。傷はけっして大きくはない。だけど血がなかなか止まらない。

 すかさずアレキサンダーが寄ってきて、笑いながら耳許で囁いた。

 「で、このカットには別料金がチャージされるのかな?」

 ヴィダルは焦った。ペーパーは真っ赤に染まっていく。まさに、その瞬間だった。マリーが鏡越しにヴィダルを見つめて、こう言ったのだ。

 「次のショーのとき、ヘアを担当してもらえませんか?」

 ヴィダルは即答した。

 「イエス。もちろん。で、いつ?」

 この瞬間、マリーとヴィダルの“契約”が成立した。それは文字通り“血”によって結ばれた契りとなった。

 

 

 マリー・クワントの劇的な変化は、ファッション業界だけでなく一般社会でも大きな話題となった。大きな瞳。高い鼻と頬骨。スッと流れ落ちる顎のライン。そして長い首。マリーの顔立ちの美しさが、ヘアスタイルによって浮かび上がり、強調されたのだ。

 それまではマリーがつくり出すファッションに注目が集まっていた。ところがその日から、マリーそのものも同時に注目されるようになったのだ。

 ヴィダルはこうしてまた、ひとりのスターを生み出した。

 

 

“次の”ファッションショーは、マリーがサロンにやってきた日の約2カ月後に設定されていた。毎日のように行われる事前の打ち合わせ。マリーの描く多数のファッション画。次々と縫製されて、できあがってくる服。それを着るモデルたち。打ち合わせのあらゆるシーンを目に焼き付け、情報を頭のなかにたたき込みながら、ヴィダルは考えた。考え抜いた。

 ショーに出演するモデルのヘアカットは、その間一度も行わなかった。ヴィダルはサロンのスタッフとともにチームをつくり、ヘアスタイルを検討しつづけた。

 「切るのは前日の夜だ」

 ヴィダルはチームに宣言していた。同時に、マリーにも伝えた。理由を聞かれると、ヴィダルはこう答えた。

 「事前にモデルのカットスタイルを披露したくないんだ。最後の最後に驚かせてみせる」

 マリーは、ヴィダルを信じた。ヴィダルの感性。ヴィダルの技術。ヴィダルのデザイン。

 

 

 ショーの前夜。“チーム・サスーン”が『バザー』に乗り込んできた。マリーは、モデルに衣装を着せ、最終的なフィッティングを始めていた。その現場に、チーム・サスーンが入る。

 フィッティングが終わったモデルから、ヴィダルは切り始めた。チームのメンバーも、手分けしてカットを始める。

 何度も確認し、何度も練習を重ね、何度も練り直したヘアスタイルだった。

 ボブ。だけど片側のヘアがもう一方のサイドより短いボブ。つまり左右非対称のボブヘアだ。

 

 夜が明けた。ショー当日の朝。チーム・サスーンはまだハサミを動かしている。ヴィダルが最後のひとりのカットを終えたとき、バックルームには見たこともない光景が広がっていた。

 モデルたちは、タイトでスキニーなリブセーターを着ている。その柄はストライプや、大胆なチェックだったりする。そしてもちろん、マリーの代名詞になりつつあったミニスカートにカラフルなタイツ。さらにその日は全員が膝丈の、白い編み上げブーツを履いている。ブーツの素材はビニール。これは後にロンドン・ルックの典型となり、ヨーロッパやアメリカへと急速に拡がっていく。そのファッションを、モデルたちのヘアスタイルがより一層斬新なものに見せていた。

 ヴィダルの創造したヘアスタイルは、マリーのすぐれたデザインの総仕上げのためのピースだった。その最後のピースは驚くほどダイナミックに、マリーのデザインを際立たせていた。

 

 

 報道陣が大挙してやってきた。招待されたファッション関係者もやってくる。そのなかにはファッション誌の名編集者がたくさんいた。

 

 ショーが始まった。

 最初のモデルが登場したときの、会場の空気をどう表現すればいいだろう。全員が息を止めた。身体の動きが止まった。まるで感電したように、モデルを見つめている。

 モデルの細くて長い足。白いビニールの編み上げブーツ。観客を誘惑するようなウォーキング。会場を威圧するようなポージング。モデルが動くたびに、ヘアが揺れる。ヴィダルのつくったヘアが動く。上下に。左右に。自在に動く。その髪の動きもまた、ファッションの一部だった。

 

 「スウィンギング・ヘア」

 ヴィダルはつぶやいた。イメージ通りに動き、止まるヘアを見て、ヴィダルはそうつぶやいた。

 [みなさん、どうです。これが女性たちを旧い因習や呪縛から解放する、自由にスウィングするヘアです]

 ヴィダルはそう叫びたくなった。

 感動していた。ヘアは自然に、しなやかに、いつまでも揺れつづけた。

 

 

 ショーが終わった。マリーは、ヴィダルに抱きついてきた。泣きながら、抱きついてきた。

 「すごいわ。すごいわよ、ヴィダル。あなたって最高」

 

 

 翌朝。ヴィダルは朝刊が待ちきれなかった。

 もちろん不安もあった。あまりにも斬新なショーだったため、ジャーナリストのなかにはきっと受け止められない人もいるはずだ。

 スタンドから新聞を買ってきた。全種類の新聞を買ってきた。部屋に戻ってめくる。急いでめくる。

 やはり、年配のジャーナリストたちには伝わっていなかった。いいも悪いも論評していない。つまり、わからないのだ。

 だが、若いファッション編集者やライターたちには伝わっている。驚きをもって論評してくれている。彼らは“革命”が起こりつつあることを、間違いなく察知していた。

 

 もちろん主役はマリーだった。マリー・クワント。この稀代の天才を、メディアは絶賛していた。

 以来、マリーのショーでは必ず、ヴィダルがヘアを担当した。またヴィダルがヘアショーを行うときには、マリーが洋服を担当する。こうして“血を分けた兄妹”は、ひとつのチームとなった。

 

 

 ふたりの女性がサロンに予約の電話を入れてきたのは、その翌週のことだった。

 ひとりは、クレア・レンドルシャム。『ヴォーグ』誌のファッション・エディター。マリー・クワントのよき理解者であり、『ヴォーグ』を代表する名物編集者でもある。

 そしてもうひとりは、フェリシティ・グリーン。『デイリー・ミラー』誌の、同じく有力なファッション・エディターだった。

 ファッション業界で最もパワフルなふたりの、予約だった。

 

 

 

つづく

 

※ゴッホ

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ。

1800年代後半を生きたオランダの画家。ポスト印象派の代表的な画家で、数多くの『ひまわり』を描いたことでも知られている。

 

 

※カフリンクス

Cufflinks

ドレスシャツやブラウスの袖口を留めるための装身具。日本では『カフスボタン』『カフス』と呼ばれている。

 

 


 

 

<第44話の予告>

マリー・クワントとの協業は、ヴィダルの目の前にあたらしい世界を拓いた。ふたりの名物編集者と知り合ったヴィダル・サスーンは、1950年代後半から60年代前半にかけてロンドンのファッション・シーンで重要な役割を担っていく。その拠点となったのが、あたらしい出資者とともにオープンしたサロンだった。

 

 


 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

『MARY QUANT』マリー・クワント著 野沢佳織訳 晶文社

『スウィンギング・シックスティーズ』ブルース・インターアクションズ刊

『ザ・ストリートスタイル』高村是州著 グラフィック社刊

 

  ライフマガジンの記事をもっと見る >>