美容師小説

美容師小説

-­第7話­-【1944年 ロンドン­1】 「英語、勉強しなきゃ」

 地下鉄の階段を上って地上に出ると、そこは別世界だった。

 

 英国・ロンドン。

 1944年春。

 

 ヴィダルは、持っているなかで最も上等なスーツを着て、大通りに立った。

 足下に目をやると、両足にはぴかぴかに磨き上げた靴。

 

 今日は、ぼくの人生が変わる日だ。

 心のなかでつぶやいた。

 

 ヴィダル・サスーン。

 当時、16歳。

 

 美容師の修業を始めて2年半。

 コーエン先生にはほんとうにお世話になった。

 だけどぼくはあたらしい道へと踏み出す。

 コーエン先生のサロンを出て、最高の美容師のもとで働く。

 ロンドンで今、最高の美容師。

 レイモンド。

 彼のサロンは第一級の住宅地、ここメイフェアにある。

 ぼくはミスター・レイモンドに雇ってもらうのだ。

 

 準備は万端だった。

 服も、靴も大丈夫。ズボンはきっちり折り目がついてる。髪もしっかりと固めてきた。

 それでも、やはり気後れはする。

 下町のイーストエンドで育った自分が、いよいよ山の手のウエストエンドへ。

 

 通りに立つだけで、イーストエンドとの違いは明らかだった。

 建物が違う。行き交う人の姿勢が違う。歩き方が違う。走るクルマも違う。空気が違う。目の前を漂うほこりさえ、違う。そんな気がするのだ。

 

 ここはロンドンの中心部。

 バッキンガム宮殿のすぐ北側。西にはハイド・パークが広がるメイフェア地区。

 建ち並ぶ商店。レストラン。豪邸。広大な芝生の公園。

 だがそこにも、空襲の爪痕ははっきりと点在していた。

 

 

 当時、英国は戦争の真っ只中にあった。

 きっかけは5年前。1939年9月1日。

 ナチスドイツは突如、ポーランドに侵攻。

 第二次世界大戦が始まった。

 

 翌1940年6月。

 破竹の勢いで西へと攻め進んだドイツは、フランス、ベルギー、オランダを電撃占領。次のターゲットを英国に定めた。

 フランスから、ドーバー海峡を隔てた島国・英国への上陸作戦を展開するため、まずは海峡上の制空権と制海権を確保しようとする。海峡に面した港湾への爆撃が始まり、9月になると首都ロンドンへの空襲も始まった。

 

 

 ドイツ空軍による本格的な空襲は、1941年の5月にはいったん収まっていた。だが、1944年になるとロンドンには再び空襲警報がひんぱんに鳴り響くようになっていた。

 だが、ヴィダルがメイフェアを訪れた日は朝から一度も鳴ることはなかった。

 いつもはどんよりと曇った空が、信じられないほど真っ青に晴れ上がっている。

 

 よしっ。

 ヴィダルは気合いを入れた。

 

 ロンドンの中心、ピカデリー・サーカスへ向かって大通りを歩き、途中で左に折れる。

 アルバマール・ストリート。

 そこにお目当てのサロンはあるのだ。

 

 『ハウス・オブ・レイモンド』。

 あった。ここだ。

 ヴィダルの胸は高鳴った。

 

 ぼくはここで勝負する。

 ナンバーワンの美容師のもとで、腕を磨くんだ。

 

 心の中で自らを奮い立たせ、気後れを蹴り飛ばしてサロンの扉を開けた。

 

 

 正面に受付。

 そこには美しい女性が立っていた。

 ヴィダルはその女性に向かってまっすぐに歩み寄ると、言った。

 「ミスター・レイモンドは、いるかい?」

 

 受付の女性は大きな目をさらに大きくして、ヴィダルを見つめた。

 頭の中では素早く値踏みをしている。

 (この少年はお客さまではない。それは最初からわかっていた。ウチに男性のお客さまがいらっしゃることはほとんどない。ではいったい、この少年は何者かしら。しかもこのひどい訛り。これはまぎれもなくコックニー訛り。ということはイーストエンドの労働者階級の子ども……)

 

 「この世界では、ナンバーワンだって聞いたんダ。コーエン先生からなんだけど。知ってるかい?コーエン先生。ぼく、そこで働いてたんダぜ」

 

 女性はただ、目を丸くしたまま立ちすくんでいる。

 

 「だからぼく、ここで仕事することにした。ミスター・レイモンドに会えるよね」

 

 (あぁ、なんてこと。この言葉の汚さ。こんな言葉の子がウチで働くなんてあり得ないわ)

 

 「ダメです。会えません」

 

 (ピシャリと言ってやった)

 

 「私どものサロンでは、あなたは働けません」

 「なんで? ぼく、もうシャンプーボーイじゃないんダぜ。コーエン先生のとこではヘアドレッサーとして働いてたんダ」

 

 (コーエン先生? だれ? 知らないわ)

 

 「そうですか。でも残念ですが、働けませんわ。レイモンドにも会えません」

 「なんでだよ。会わせてくれよ」

 

 (しつこいわね、このコは。こうなったらちゃんと言ってあげなきゃね)

 

 「もし、あなたがヘアドレッサーの仕事をお探しであれば、お勧めしたいことがひとつあります。いいですか。ここウエストエンドで仕事を探す前に、あなたはまずコトバを勉強するべきです」

 

 ヴィダルはぽかんと口を開けた。

 「ことば……」

 「えぇ。そうです。コトバです」

 「ことばって……」

 「もちろん、英語のことです」

 

 あっ。

 ヴィダルはようやく自分の過ちに気づいた。

 そうか。

 訛りか。コックニーか。

 ウエストエンドの一流サロンでは、コックニー訛りの人間は働けない……。

 

 なんてことだ。

 技術をいくらがんばっても、言葉が美しくなければ認められない。

 言葉が正しくなければ、ウエストエンドのサロンには立てない。

 

 英語、勉強しなきゃ。

 

 英語発祥の地・英国。

 ここでも、ひとりの少年が決意するのであった。

 

つづく