日本のなかの、アメリカで

何か、やりたい。その何かが「外国に行くこと」だった。彼は就職先として『PX』を選んだ。当時、練馬にあった米軍のグランドハイツ。そのなかで日用品や飲食物の販売所である『PX』には、美容室もあった。当然、お客は米国人。軍人の家族である。米国は当時、ベトナム戦争という泥沼に足を踏み入れていた。

「日本の美容室では見なかったこと、学校では絶対に習わなかったことをやってるんです。たとえば薬剤。そこでは日本の薬が使えない。すべてアメリカから来てる。シャンプーもメイドインUSA。日本円も使えない。全部ドル。カッコイイじゃないですか。憧れるじゃないですか。行きたいなぁ、って」

『PX』。それはまさに米国であった。グランドハイツ。その集合住宅もまた、米国だった。彼は日本のなかの米国で、働いていたのだ。

「自分はこっちの方が合ってると思ったんです。チャレンジしたいなという気持ちが出てくる。だって髪質も日本人じゃないんですから。お客さん、日本人なんかいないんですから」

彼は猛然と勉強を始めた。美容の、というより英語の勉強である。英会話の本を買い、“ソノシート”というレコード盤を繰り返し聞き、NHKの英会話番組を見た。そのうちに彼の顧客が「英語を教えてあげるから家に来い」と言ってくれる。軍人宅を訪れると、そこもまた“アメリカ”であった。大きな庭。大きな冷蔵庫。大きな洗濯機。軍人の奥さんは彼に英語を教えながら言うのだ。

「フミオ、世界は広いのよ」

もう、たまらなくなる。17歳で就職した彼はその2年半後、19歳で日本を出ることになる。目的地はカナダのトロント。

決めたら、動く。だれがなんと言おうと、動く。それが川島文夫である。彼は母親に頼み込み、当時の持ち出し上限であった500ドルを出してもらった。当時、1ドルは360円。

出発の日。羽田空港にはたくさんの友人、知人が見送りに来た。家族ももちろん、学校の校長先生も来た。彼が飛行機のタラップへ向かうと、その全員がバンザイを叫んだ。その多くは泣いていた。川島自身の目からも、涙があふれた。そんな時代だった。いつ帰ってくるのかわからない。いや、果たして生きて帰って来られるのか。だれもが今生の別れになるかも知れないと思った。本気で思っていた時代だった。それほど外国は遠かった。

1968年。川島文夫を乗せた旅客機は、まずカナダのバンクーバーへ向かった。彼が手にしていたチケットは片道分。帰国するためのチケットは、なかった。

戦争には、行きたくない

しかし本来、彼は米国をめざしていたはずだ。グランドハイツで見た米国の暮らし。テレビや映画で見た暮らしぶりやファッション。それらを確かめたくて、彼は日本を離れる決断をしたのだ。ところが彼はカナダに向かった。それはなぜか。

「アメリカではグリーンカードを取らないと仕事ができない。それに徴兵制度があってね。アジア人のぼくが申請すれば、ベトナムに送られるかも知れない。ベトナムへ行けばグリーンカードを出す、とかね。それは困る」

確かに困る。ベトナムは当時、戦場であった。アジア系の兵士は真っ先に最前線に送られたであろう。彼はそのリスクを避けた。だからカナダ。しかもバンクーバーには知り合いがいた。

「今まで、自分が19年間生きてきて見てきたことと、すべて違うわけ。もうひっくり返りそうだったよ」

彼はバンクーバーに着いたころのことを振り返る。

「髪は長い。ジーパンにTシャツ。マリファナも吸ってる。もうフラワーパワーの絶頂期だった。北米全体がウッドストック。男も女もめちゃめちゃ。吟遊詩人みたいな人ばっかり」

そのとき、彼は思っている。

「これはちょっとハッピーすぎるな。広すぎるし。日本人にはもうちょい狭い方がいいんじゃないか」

彼はサンフランシスコにも行ってみた。西海岸。そこでは東、つまりイーストコーストとの違いが強調される。

「そう言われれば言われるほど、見てみたくなる」

カナダ東部のトロント。そこまでのチケットは持っていた。彼は迷わず飛行機に乗った。

「（トロントは）なんかしっとりした街だなというのが第一印象。それにバンクーバーよりモダンだなと思いました。よし、ここで仕事を見つけよう、と」

彼は動き始める。トロントで、美容師として仕事をするために。

まず新聞を見て部屋を探す。部屋が決まると仕事である。彼はトロント郊外の、イタリー系の移民が経営する小さな美容室に採用された。

「ま、仕事なんて見つかるもんですよ」

仕事は見つかるかも知れない。だけど、「できる」のだろうか。

「じっと見てれば、できちゃうんですよ。やる気があれば、見よう見まねでできちゃう」

それはシャンプーなのか。まさかカットまでもできる、と。

「なんでもやりますよ。早いんだもん。見て、すぐわかっちゃったもん。もちろん、うまい下手は別ですよ」

彼は就職先を決めるまで、トロント市内のいくつもの美容室を訪ね、仕事を見させてもらっていた。

「じっと見てると、この街ではこういうやり方なんだなってわかってくる」

それは日本のやり方とは違うのか。

「違いますね。でもだいたいこう引っ張り出して切るんだから、だいたいできますよ。だって歌手の人も、芸大行かなくたって歌は歌えるもん。同じでしょ。見ればわかるもん」

ホントですか。

「いやホント。できるって。ぼくはそこに3カ月くらいいたんですよ。自信ができるまで。すごい安い給料ですよ。でもお客さん、回してくれるじゃないですか。個人店だから。こんなに働く人を、安い給料で使えるわけだから」

だが、彼は3カ月ほどでその店を辞める。

「だってそれが自分の目標じゃないじゃないですか。今度はもっと街の中心の、一番いいところで働くこと」

その小さな美容室で働きながら、彼はトロント中の美容室を見て歩いた。美容室のオーナーも、見に行くべき美容室を教えてくれた。

「わかってくれてるんです。わざわざ日本からやってきて、こんな小さな店にいつまでもいるはずがない、と」

やがて彼は1軒の美容室を選び出す。それは百貨店のなかにある『グレンビー』という名の美容室だった。

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