PEEK-A-BOO川島文夫 〜飢餓感の、地図。〜【GENERATION】前編  雑誌リクエストQJ2003年1月号より

市内を見渡す、高級アパート

 

 

飛び込んだ彼は、仕事を探している旨を告げる。その日、その時間に、たまたまゼネラル・マネージャーがいた。

「マゾーラさんというんですけど、その人に気に入っていただいて、試験を受けてみろ、と」

 

日本でも同様だが、カナダでもスタイリストの採用はその顧客の数に左右される。つまり何人のお客を連れてこれるか。彼は不利だった。市の中心部に、来てくれるような顧客はいなかった。しかし、そこは百貨店内の美容室。フリーのお客はたくさん来る。よって顧客数は問わない。

「ラッキーなんです。たまたまマゾーラさんがいた。百貨店のなかの美容室だった。ちょうど打ち出し方を変えようとしていた。あたらしい、やる気のある若手が欲しかった」

加えて、彼の眼の輝きである。プレゼンテーションである。彼は堂々と、胸を張って自分をアピールした。20歳になったばかり。実績は何もない。しかも日本人。それでも試験を受け、彼は合格する。その結果を、勤めていた美容室の主人に告げた。

「グレンビーに採用されたので辞めさせていただきます」

主人は陽気に答えた。

「そうか。それは良かった。フミオ、いつでも戻ってこいよ」

 

『グレンビー』での仕事が始まった。給料は歩合制。平均で売上の50%がスタイリストの取り分である。彼は40%からスタートした。

「シャンプーからすべて、自分でやるんです。独立採算ですから。パーマもやるし、ブローもやる」

 

果たして、彼には次々と顧客がついた。たちまち彼は高給取りになる。

「だって、うまいんだもん」

そう言って、彼は笑う。

「ま、うまいと思われたんじゃないですか。ま、今から考えれば普通のレベルだったと思いますよ。だけどね、1年やってお客さんがつかなかったら、10年やってもつかないじゃないですか」

 

何が気に入られたのだろう。技術か、それとも人間か。

「両方だと思います。だってこの人はイヤだなと思ったら、髪触られるのもイヤじゃないですか。最初からその店のお客さんに合ってたんでしょうね。百貨店に勤める優しいおねえさん、みたいなお客さんが多かったし」

技術にも自信があったのか。

「もう、そのころは無我夢中で、とにかく髪を上に引っ張って切るしかなかったんですよね。頭って丸いんだから、ここを残せばかたちができるという法則がある」

でも、それは教わっていない。

「うん。教わってはいない。見て、覚えて、自分で考える。街を歩いていても、見る。本屋に行って雑誌を見る。そりゃあもう必死なんだから」

 

彼はアパートを替わった。トロント市内を見渡せる高層アパート。その20階に、彼は移った。地下にはプールもあった。

そこで彼はいつもパーティーを開いた。友人が、そのまた友人を連れてくる。広い部屋のなかは知らない人でいっぱいになる。飲む。食べる。騒ぐ。1960年代の終わり。北米の若者はベトナム戦争に倦み、嫌悪し、退廃的な暮らしでエスタブリッシュメントへの抵抗を試みていた。

 

 

破り捨てた、チケット

 

ちょうどそのころ、である。彼のこころのなかに再び、満たされない想いが湧きあがってきた。

「いろんな知り合いができたりするでしょ。そのなかには上手だなぁと思う人もいる。同じ店のなかにも、いる。他の店を回ってみると、もっといる。世の中にはうまい人がいっぱいいるんだなぁ、と」

高級アパートでの暮らし。彼を慕う顧客たちの眼差し。明日のことを気にせずに使えるお金。それでも彼は満たされてはいなかった。日本で出会ったアメリカ軍人の、奥さんの言葉を思い出す。

「フミオ、世界は広いのよ」

 

彼はあらたな決断をしようとしていた。

「引き出して切る。それは結局、お客さんに対しての技術で、アーティスティックじゃない。ぼくはやっぱり何かをつくりたい。もっと自分が変わりたかった。頭のなかで求めてるものはもっともっと強烈にあったと思う」

 

アート、である。彼はヘアスタイルにアートを求め始めた。雑誌を見ていると、そのアートの代表のなかの代表だと思える美容師がいた。『ヴィダル・サスーン』である。

「“ファイブポイントカット”はアートですよね。シャープで、グラフィックで。へぇ、こんなのがあるんだ、と」

思い立ったら止まらない。彼はその本店へ行きたくなってしまうのだ。

『ヴィダル・サスーン』の本店。それは英国・ロンドンにあった。

 

『グレンビー』には、サマーホリデイという夏休みの制度があった。期間は2週間。その休みを利用して、ロンドンへ行こう。そう、彼は考えた。

「マゾーラさんにお願いしたんです。ロンドンに行きたいんだけど、だれか紹介してくれませんか」

マゾーラは快く引き受けてくれた。運のいいことにちょうど百貨店の従業員向けに“ロンドンツアー”が企画されていた。期間は2週間。往復はチャーター機。格安。彼はその飛行機に便乗することになった。こうして彼はロンドンへと向かうことになる。

 

1970年。だが、それは2週間という期限付きの旅行。でも彼は『ヴィダル・サスーン』の門を叩いた。

「職を探しているんですけど」

そう切り出すと、彼はマゾーラが書いてくれた紹介状を見せた。サスーンのスタッフは答えた。

「オッケー。じゃあ、この紹介状をスクールに送っておくから試験を受けてくれないか」

 

サスーンで働くためには、スクールに通わなくてはならなかった。そのスクールに入るための試験がある。

 

今でこそ大規模なアカデミーを擁するサスーン。だが、当時は小さなスクールがひとつ、『ナイツブリッジ』という場所にあるだけだった。しかし、そこにはすでに世界中から美容師たちが集まりつつあった。

 

ロンドンに着いて4日後。彼はサスーンの試験を受けた。“バーグラー”と名付けられた、採用されるまでの研修を受けるコース。授業料は無料。その試験に、彼は一発で合格する。なんと、彼は翌日からスクールに通うことが決まった。

 

しかし彼にはチケットがある。2週間でトロントへ戻る航空券。

「破っちゃいました。捨てちゃった。だってもうサスーンに行けるんだもん。帰る必要ないもん」

いや、アパートは? 荷物は?

「送ってもらえばいい。そんなもん、たいしたことないよ」

 

それが川島文夫であった。美容師になりたいと思ったら、即座に高校を中退する。外国に行きたいと思ったら、米軍の『PX』に職場を求める。外国に知り合いがいたら、飛行機に乗る。トロントで最先端の美容室を見つけたらすぐに売り込み、試験を受ける。

即座に。すぐに。ためらいなく。その自信。決意。そして無謀とも思える行動力。川島文夫はことごとく、その決断と行動をプラスに変えてきた。

 

20歳にして、トロントの高級アパートの住人の地位を獲得した彼。何不自由なく暮らせる収入を得ていた日々。当時の日本人にとっては、まばゆいばかりのサクセスストーリーを彼はあっさりと捨て去った。より大きな、より充実した、あるいはよりひりひりするような緊張の日々を求めて。

その飢餓感。どんな状況にも満足することのない“こころの乾き”こそが、川島文夫をつくり上げてきた。ならば彼はロンドンで、サスーンで何を学び、何を捨て去ったのか。その物語は、次号に譲りたい。

 

 

   ライフマガジンの記事をもっと見る >>

   リクエストQJ Instagram

   リクエストQJ YouTube

  旬の美容師求人はこちら

Related Contents 関連コンテンツ

Guidance 転職ガイド

Ranking ランキング