美容師小説

美容師小説

-第26話-­【1949年 ネゲブ】ハサミひとつで、世界を変える

 シャワーを浴びた。19日ぶりのシャワーだった。

 戦友たちはみな笑顔だった。熱いお湯を浴びながら、はしゃいでさえいた。

 ヴィダルも笑顔だった。シャワーですべてを洗い流したかった。身体中に石けんを塗りつけ、両手で激しく擦りあげた。19日分の汗、脂も埃も、きれいに流れ去っていく。しかし、頭の中にはエリアフの笑顔があった。牛肉の缶詰を持って走ってくるエリアフ。その無邪気な笑顔。彼の、最期の笑顔。……流れてはいかなかった。

 

 シャワーを終えると、清潔な『サブラ』が待っていた。イスラエル生まれではないヴィダルも、サブラを着る権利が与えられた。あの『カルメリの丘』を奪還し、守り抜いたご褒美だった。

 

 キブツの人たちが、パーティーを用意して待っていた。羊のバーベキュー。キブツで採れた新鮮な野菜。そしてワイン。みな勝利を祝っていた。

 アコーディオンの演奏で、ダンスが始まる。女性たちがダンスに誘う。ヴィダルも踊った。くたくたになるまで、踊った。

 

 その輪の中にサラは、いなかった。

 

 手拍子。歌声。アコーディオン。歓声と嬌声。にぎやかなパーティーからひとり離れ、ヴィダルは夕暮れのなかを歩いた。灌木の間を縫い、砂地に出た。

 空に、ひとつだけ明るい星が輝いていた。

 

 ヴィダルは砂の上に倒れ込んだ。大の字になって空を見上げた。

 空は、オレンジ色と藍色とに分かれていく。オレンジはその色を濃くしながら、急速にその面積を縮めていく。代わって空の大部分を支配していくのは濃い藍色だ。そこにぽつりぽつりと星が瞬き始める。

 その様子を、ヴィダルはいつまでも見上げていた。

 

 気がつくと、周囲は真っ暗になっていた。どうやら眠ってしまったらしい。しかもかなり深く。

 

 空。

 思わずヴィダルは声をあげた。

 「Wao !」

 満天の星だった。無数の星がきらきらと瞬いている。じっと見上げていると、星たちがゆらゆらと揺れているように見える。その中央を横切るように、大きな光の帯があった。それは白い川のようでもあり、やわらかな雲のようでもあった。

 

 宇宙には無数の星がある。

 ふと、そんな声が心のなかに響いたような気がした。

 

 〔世界には、数え切れないほどの美容師がいる〕

 初めて、そんなことを考えた。

 

 戦争はまだ終わってはいなかった。ヴィダルは、自分が必要とされている時に、必要とされている場所にいることがわかっていた。その充実感は、ヴィダルのこころを満たしていた。

 〔ぼくはずっと、このイスラエルにいるのだろうか〕

 問いかけてみた。

 空では星が瞬いている。沈黙の星々。

 

 〔それともロンドンに戻って美容師をやるのか〕

 

 星たちは、無言で瞬きつづける。

 

 〔このままイスラエルに残って、戦いをつづけるのか〕

 

 エリアフがいた。あの笑顔があった。

 そこにかぶさってきたのが、エジプト兵たちの姿だった。丘を奪還するために、向かってきたアラブの兵士たち。突撃のときの、あの形相。

 不思議だった。憎しみが湧いてこないのだ。戦友のエリアフを殺した敵兵たち。しかし、湧いてくるのは怒りや憎悪ではなく、どちらかといえば哀しみのような感情だった。

 

 〔彼らは何のために戦っているのだろう〕

 

 ヴィダルは考え始めた。遠くエジプトから送られてきた彼らは、何のために戦っているのだ。たったひとつしかない自分の命を懸けて、何のために。

 

 ヴィダルは気づいていた。エジプト兵は徴兵されて、ここにやってきた。この戦場にいる理由も、情熱も、なかった。彼らは政治家たちの、カイロでふかふかのソファーに座っている政治家たちの、そして勲章を並べた軍服に身を包んだ上官たちの命令に従って、ここへやってきた。

 

 〔ぼくらのような特別な理由、特別な愛国心、特別な憎悪はなかった〕

 

 ヴィダルには、理由があった。イスラエルに来る理由。イスラエルで戦う理由。それはヴィダル本人の存在そのものに関わる理由だった。だからこそ命を懸ける。生きるか死ぬかではなかった。生きる。そのために戦う。

 だが、エジプト兵は違う。生きるか、死ぬか。

 死ぬとしたら、何のために。彼らの命は、何に懸けられているのだろう。

 わからなかった。わからないという事実が、ヴィダルのこころを沈ませていく。

 

 〔エジプト兵は、つまりアラブ人は、ぼくの憎悪の対象ではない〕

 

 ヴィダルはアラブ人を憎んでいるわけではなかった。アラブ人を追い払う気持ちもなかった。ただ、ここにイスラエルという国をつくりたい。イスラエルという、生まれたばかりの国を守りたい。守り抜きたい。それだけだ。なぜならそれはユダヤ人の悲願だから。ここを守り抜かないと、ユダヤ人の未来が消滅してしまうから。だから、戦う。たとえ相手がエジプトではなく、米国であっても同じだ。戦う。もちろん、英国であっても。

 

 むなしくなった。

 星は相変わらず、ゆらゆらと瞬いている。

 

 〔なぜ、エジプト兵を撃たなくてはならないのだ〕

 

 思いがけない想念だった。

 だが、それは堰を切ったようにあふれ出し、頭のなかを満たしていく。

 

 〔なぜ、アラブ人と戦わなくてはならないのだ〕

 

 そのとき、はっきりとわかった。

 

 〔ぼくはもう、エジプト兵を撃てない〕

 

 なぜか涙があふれてきた。

 満天の星空が、ゆがんだ。

 

 ヴィダルはゆっくりと身を起こした。

 涙は止まらなかった。

 

 〔ロンドンに帰ろう〕

 〔美容師に戻ろう〕

 

 冷たい砂地から腰を上げようとしたそのときだった。

 

 〔だけどぼくはどんな美容師になりたいのだ〕

 

 ヴィダルは再び、砂地の上に大の字になった。

 目を閉じた。

 まぶたの裏にも無数の星が瞬いていた。

 

 〔世界には、数え切れないほどの美容師がいる〕

 

 もう一度、そう思った。

 目を開いて、空を見上げた。

 

 〔この星空のように、たくさんの美容師がいる〕

 

 〔ぼくはそのなかの、どの星になるのか〕

 

 探してみた。ぼくの星。ヴィダルの星。できるだけ大きな星を探した。

 

 〔ぼくはこのなかのひとつになるのか〕

 

 〔いや、ちがう〕

 

 すぐに否定していた。ならば、なんだ。

 そのときだった。星が消え始めた。いっせいに消えていく。東の地平線の色が変わった。ぼんやりと、オレンジ色の帯が見えた。帯はみるみるうちにその面積を拡げていく。その美しさに見とれているうちに、空全体に瞬いていた星の姿がほんの数個を残して消えていた。その変化は、劇的だった。

 オレンジ色はやがて白色へと変化し、最初の光がほとばしった。

 

 太陽だった。星々の世界を一瞬にして変えてしまう、たったひとつの星。すべての星の瞬きを、ひとりで消し去ってしまう星。太陽。

 気がつくと、ヴィダルは泣いていた。今度は感動の涙だった。

 

 〔そうだ〕

 〔ぼくは美容師のひとりになりたいのではない〕

 

 なぜか興奮していた。アドレナリンが身体中に噴出してくる。

 

 〔ぼくは世の中を変えたいんだ〕

 

 身体が震えはじめた。

 

 〔ハサミひとつで、世界を変える〕

 

 ようやくわかった。はっきりと、わかった。

 

 〔ぼくはそのために生まれてきた〕

 

 エリアフの笑顔。

 

 〔ぼくはそのために生き残った〕

 

 身体の震えは止まらなかった。勢いよく起ち上がると、ひざがガクガクした。

 それでもヴィダルは一歩を踏み出した。自分がほんとうにやるべきことが見つかったのだ。

 

 

 それまで、ヴィダルは〔やりたいこと〕を探してきた。美容師になったのは母親の勧めであり、自分が選んだ道ではなかった。しかも美容の世界は、ヴィダルをわくわくさせる魅力が乏しかった。だから美容師は、〔やりたいこと〕ではなかった。

 

 子どものころ、めざしていたのはフットボールの選手。『チェルシー』のエースストライカー。でなければ、建築家。それが〔やりたいこと〕だった。

 しかし、ヴィダルは美容師の見習いになった。その世界でやってきたことは、〔できること〕を増やすことだった。自分に〔できること〕をつくる。それはヴィダルにとって報酬を得るひとつの手段だった。

 

 〔やりたいこと〕と〔できること〕。幸運にもその両者が合致することがあれば、すばらしい人生になるに違いない。だけど現実は、そううまくはいかない。ヴィダルは十代を通してそういうことを学んできた。だから人は〔やりたいこと〕をあきらめる。〔できること〕を増やしていく。それが人生だ。みなそうやって生きていくのだ、と。

 だけど違うのだ。人生にはもうひとつの道がある。それは〔やるべきこと〕と出会うこと。〔やりたいこと〕でも〔できること〕でもない。〔やるべきこと〕。

 ヴィダルは初めて、自分の〔やるべきこと〕を発見した。人生の使い方を直観した。と同時に、それがそのまま〔やりたいこと〕となって腑に落ちた。

 

 〔ハサミひとつで、世界を変える〕

 

 身体中が震えるほどの感動。すぐにでも荷物をまとめ、ロンドンに帰る。美容師の仕事に戻る。

 

 だが、ヴィダルはロンドンに帰らなかった。それから3カ月も、イスラエルにとどまった。

 

 1949年2月23日。

 イスラエルはエジプトとの停戦協定を結んだ。戦争はひとまず終わった。だがそのあとも、ヴィダルはずるずるとイスラエルにいた。

 理由はふたつ。

 

 ひとつはサラの言葉だった。

 ヴィダルはサラに打ち明けた。自分の〔やるべきこと〕を。

 するとサラはこう言ったのだ。

 「それはすばらしいアイデアだわ。だけどヴィダル、ここがあなたのホームなのよ。あなたの国なの。この国のために戦ってくれたことはありがたいわ。だけど、それだけでは十分じゃない。ここに残って、建国のために力を尽くすこと。それがあなたの、ほんとうの〔やるべきこと〕であるはずよ」

 サラの言葉は、ヴィダルのこころに刺さった。

 

 もうひとつは、自分自身の問題だった。

 美容師に戻るイメージはできていた。だが、〔世界を変える〕イメージが湧かないのだ。

 どうやったら変えられるのか。どんな技術が必要なのか。何が革新なのか。何を変えるのか。

 まったくわからないのだ。

 

 考えた。

 ほんとうに〔やるべきこと〕はなにか。

 

 結論は、すでに出ていた。出ていたはずだった。

 イスラエルの建国は、これからもたくさんの人が関わる。たくさんの人の手が必要になる。つまり、ぼくじゃなくてもできる。だけど美容はちがう。ぼくが、世界を変えるんだ。つまり、ぼくじゃなければできないこと。ぼくが、やるべきこと。

 だけど、どうやって……。

 

 ぐずぐずしていた。戦争が終わったイスラエルの、明るい陽光。砂漠に拡がる農地の緑。オレンジの香り。あたらしく、実験的な民主主義の胎動。すべてがみずみずしく、それぞれが強烈な魅力を放っていた。

 

 ヴィダルは、逃げていた。

 はっきりと見えたはずなのに、〔やるべきこと〕から逃げていた。

 実現へと向かう道が、見つけられないのだ。

 そのうちに、ヴィダルは自分自身を疑い始める。〔ぼくに、ほんとうにできるのだろうか〕と。

 そんなヴィダルを、天が許さなかった。

 ある日、ヴィダルの重い腰を蹴り上げるような出来事が起こる。ロンドンから、一通の電報が届いたのだ。

 

 チチ タオレル シンゾウホッサ スグモドレ

 

 

つづく

 


 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

 

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