その女性は毎週金曜日の夕方にやってくる。
服装のセンス。優雅な身のこなし。貴族階級の婦人であることは明らかだった。
女性の束ねた髪は、後頭部のやや上部にきれいにまとめられている。そのヘアスタイルは前週の金曜日に、『ロメインズ』の美容師がつくった“シニヨン”だった。
美容師の名はジェラルド・ロンドン。彼は「シニヨンの王様」と呼ばれていた。
ジェラルドはアシスタントに指示をして女性の髪をほどかせる。アシスタントは慣れた手つきで次々とピンを抜いていく。すべて抜き終わるとシャンプー台へと移り、ゆっくりと時間をかけて髪を洗うのだ。
ピンを抜き終わった瞬間、女性は毎回、ほっとしたような表情になる。ちいさく息を吐き、解放感にひたるような表情を見せる。ロングヘアが肩から背中にかけて拡がっている。
[つらいだろうな]
ヴィダルはいつもそう思う。
シニヨンもそうだが、ヘアスタイルをつくり、逆毛を立ててスプレーで固めると女性は髪を洗えない。その女性は1週間に一度しか洗えない。なかには2週間に一度というお客もいる。そのつらさを、ヴィダルは理解できる。イスラエルで経験しているからだ。あのカルメリの丘の奪還作戦。ヴィダルは19日間もの間、シャワーを浴びることができなかった。身体中がかゆく、頭も耐えられないほどかゆかった。
[おそらく、彼女もかゆい。かゆいはずだ]
それでも、女性は耐えるしかなかった。
耐えるのは頭のかゆさだけではない。問題は寝るときだ。シニヨンの女性は、枕に頭を沈めるなどということは許されない。たとえばシニヨンの頭で、ふかふかのやわらかい枕に頭を預ける。その瞬間は快感にふるえるだろう。だが、後悔することになるのは翌朝だ。シニヨンは原型をとどめていない。
だから女性は高枕を使う。ヘアスタイルを維持するために、固くて高い枕を使う。アジアの端の、日本という国から取り寄せた枕。木製の土台の上に布で包んだちいさな枕が乗っている。そこにそっと首の後ろを乗せるのだ。
寝返りなんか打てない。打ったら頭は枕から落ちる。だから真上を向いたまま、朝までぴくりとも動かずに過ごすのだ。
[まるで拷問じゃないか]
ヴィダルは女性に同情する。だが、女性にそのような日常を強いているのは、ヴィダルたち美容師がつくるヘアスタイルなのだった。
シャンプーが終わった。女性はさきほどよりさらに解放感に充ちた表情になっている。だが、それもほんのつかの間のこと。これから再び、髪は“シニヨンの王様”によって、まとめ上げられるのである。
ジェラルドが“仕事”を始める時間に合わせるように、ヴィダルは自分の仕事に区切りをつける。それが毎週金曜日のルーティンだった。そうしてジェラルドのそばに立ち、その仕事を“視る”のだ。
「マダム、この週末はどんなレセプションに?」
ジェラルドはまず、女性が参加する予定のパーティーのことを聞く。着るドレス。その素材。色。デザイン。たとえば胸や背中の開き具合。裾の拡がり具合。そしてヒールの高さ。さまざまな情報を聞き出す。その間にジェラルドはイメージをふくらませていく。同時に指先は、髪全体にローションをなじませていく。
いきなり、ジェラルドの手が動き始める。大胆に毛束をとり、コームで分け目を入れる。耳から上へ垂直に延びる分け目は、ear to ear<耳から耳へ>で髪を前後に真っ二つに分ける。まず前方の髪を左右に分けて、ダッカールで仮留め。後方の髪は上下に分けて、上部の髪をまとめてゴムでしばる。それがシニヨンの基盤となる。その基盤に合わせるように、下部の髪を上向きにまとめて重ねる。その間、コームはつねに動いていて、髪を下から上へ、下から上へと揃えていく。つづいて前方左の仮留めをはずして、後方の毛束に重ねる。さらに右側の髪も。こうして全体の髪が、つむじのあたりでひとつにまとまる。そのとき、ジェラルドは左右の毛束を少し残した。つまり、ひとつにまとめた毛束からはずしたのだ。おそらくそれが今回のアレンジの布石だ。
つむじのあたりでひとつにまとまった毛束はゴムで縛られ、頭頂部へと上げられた。
ヴィダルはいつも感嘆しながら見入っている。女性の髪の毛が、1本たりともはみ出すことなく、まとめられ、ねじられ、丸められ、開かれていく。髪の毛1本1本がぴたりとくっつき、全体で絹のような表面をつくる。さらにヴィダルが夢中になるのは、ウエーブだ。指で髪先を自在に動かすフィンガー・ウェーブ。その技術が、まるでマジックなのだ。
ジェラルドは、指にセットローションをつけると毛束の根元を親指と人差し指の腹でつまみ、毛先に向かってすべらせていく。そのとき、指同士を微妙にずらしながらすべらせるのだ。すると髪は優雅にウエーブしていく。そして最後、毛先に到達した瞬間、指を軽くこすりあわせる。それだけで毛先は見事に展開し、美しい扇型になったりするのだった。
だがその日のメインイベントは、フィンガー・ウエーブではなかった。
“Three-stem plait”
いわゆる<三つ編み>である。
左側に残した毛束を三等分すると、ジェラルドは三つの毛束を交差させながら編み込んでいく。編み込みながら後頭部にまとめた髪の下方へと向かっていく。そしてピンニング。つづいて右側の毛束も同様に編み込み、頭を巻き込みながらピンで留めた。両サイドに、美しい縄模様の毛束が斜め後方へと向かって進む。その変化が、シニヨンにステキなアクセントをつけた。
金曜日のヴィダルは夜が待ち遠しい。ジェラルドの技術を、早く再現してみたいのだ。午後8時にはモデルがやってくる。ヴィダルが技術を試し、開発し、練習する実験台だ。
練習が始まった。ジェラルドの手順。今日のシニヨン。それはすべて頭のなかに焼き付いている。だから同じようにやってみる。ところが、どんなに真似しても同じにはならない。何度、修正を重ねても再現はできない。髪を分け、まとめてねじる。ピンで留める。三つ編みをする。それだけのことなのに、違う。ジェラルドのシニヨンはもっとバランスがとれている。もっと面ができている。あの、絹のような表面。それがなぜ再現できないんだ。
苛立つ自分を抑え込みながら、ヴィダルは髪をほどき始める。そしてもう一度チャレンジするのだ。
できるまでやる。何度でもやる。絶対にやる。
モデルには申し訳ないが、できるまで付き合ってもらう。
シニヨンは最後、スプレーで固める。がちがちに固める。そうしないと1週間、保たない。深夜、ようやくモデルを解放する気になったヴィダルは、髪にスプレーを噴霧しながら思うのだった。
[ぼくは結局、女性の髪をスプレーで固めている]
ヴィダルは「世の中を変える」と決意していた。戦後、急ピッチで進む復興の槌音のなか、街の姿は大きく変化しようとしていた。だが、女性たちは変わっていなかった。ロンドンの女性たちはみな、同じようなヘアスタイルで街を歩いていた。パーマをかけ、セットをして、スプレーで固めたヘアスタイル。
[それをぼくは「変えたい」と思ったのではなかったのか]
しかし、どう変えていくのかがわからなかった。どこにあたらしいヘアスタイルがあるのか、わからなかった。どうすれば世の中を変えられるのか……。
わからなかった。
それよりもヴィダルは目の前のテクニックに魅了されていた。ジェラルドの技術。シニヨンのバランス。その美しさ。そのアイデア。クリエイティビティー。
さらにマネージャーのレスリー・グリーン。彼の知識。視点。教養。ロジック。そしてチャレンジ精神。
『ロメインズ』には何より活気があった。創造があった。日々、スリルさえ感じた。
[従来の技術にだって、あたらしさは発見できる]
いつしかそう思うようになっていた。
[これは後退だろうか]
ヴィダルは自問した。
しかしすぐに否定の言葉が浮かぶ。
[いやちがう。これは前進のための橋頭堡づくりだ]
[美容師としての基礎体力を鍛える訓練なのだ]
美容には、“基礎体力”が必要だった。コーエンサロンでの修業時代も、ヴィダルは基礎体力を鍛えた。ロウトンハウスに通ってカットモデルを探し、アイルランド人の大男・パトリックと出会ってその髪を切りつづけた。それはヴィダルの基礎体力として、今でも仕事を助けてくれる。
たいせつなのは反復だった。同じことを何度も、何度も、何度もやる。できるようになっても、やめない。やりつづける。そうやって頭ではなく身体に、技術を染み込ませるのだ。
[今はあたらしいことにはこだわらない。いつか何かが見えてくる。きっと見つけてみせる。そのときのためにも基礎体力をつけるのだ]
ヴィダルは“今”と、向き合い始めた。“今”の技術と握手を交わした。そこに抵抗がなかったわけではない。だが、その抵抗を軽々と超えてしまうほど、シニヨンは美しかった。先輩たちの技術は優れていた。
ヴィダルはどん欲に学んだ。徹底的に練習した。やがてその努力は、目に見える成果を求め始める。
美容師が、培った技術や才能をアピールする場はコンテストだった。英国では美容のコンテストがひんぱんに行われるようになっていた。
毎夜、遅くまで練習を重ねるヴィダルに、マネージャーのレスリーが声をかけた。
「ヴィダル、そろそろコンテストに挑戦してみないか」
「コンテスト、ですか」
「そうだ。人には目標ってヤツが必要だ。目標があれば、もっとがんばれる。逆に目標がなければ、いつか練習に飽きてくる。努力をすることに疲れてしまう。目標をクリアすれば自信になるし、さらに高い目標に挑める。それが美容師の技術を高めていくんだ」
「はい。それはわかります」
「だったら決まりだ」
「いや、ちょっと待ってください。ぼくにはまだ自信がありません」
「なに言ってるんだ。君なら勝てるさ。それだけ練習してるんだから。だけどな、練習にはガイドが必要なんだ。どこに向かって練習するのか。どんな成果をめざしていくのか。そういう道しるべのようなものだな。つまりめざす成果のイメージを明確にすることと、そこに向かうプロセスを正しく教わること。それがコンテストに勝つための秘訣なのさ」
そう言って、レスリーはひとりの美容師を紹介してくれた。シルヴィオ・カミロ。
「シルヴィオはオレの恩師だ。シルヴィオのサロンからは、有名な国際コンテストで優勝するスタイリストが何人も誕生しているんだ」
南ロンドンの、ちいさなサロンだった。外観も地味で、冴えない雰囲気が漂っている。ところが、中に一歩足を踏み入れるとその印象は一変する。壁にはヘアスタイルの写真がずらりと並び、その一枚一枚がユニークで美しいスタイルばかりなのだった。
シルヴィオ・カミロは、初老の美容師だった。きちんとスーツを着込み、細身の身体をていねいに折ってあいさつをする。一見するとホテルの支配人。ところが彼の指が髪に触れると、次々と想像もつかないようなヘアスタイルがつくり出されていく。ヴィダルは一瞬にしてそのテクニックに魅了された。
翌週から、ヴィダルはシルヴィオのサロンに通うこととなった。
シルヴィオは、コンテストにチャレンジする若手美容師に技術を教えていた。授業は週一回。授業料は3ポンド10ペンス。ヴィダルの週給は7ポンド。つまり毎週、給料の半分近くが授業料に消える。しかし、ヴィダルはシルヴィアの技術にそれだけの、いやそれ以上の価値を感じていた。それに週給にはチップとコミッションが加わって、合計約15ポンドにはなる。授業料を払っても、なんとか家族を養う手助けはできるだろう。
ジェラルドと同様にシルヴィオも、自らの手をツールとしていた。指を道具にしていた。指先だけでヘアスタイルをつくっていく。両手がめまぐるしく動き、髪を自在に操る。
シルヴィオの教えはシンプルだった。
「ヘアスタイルはアートだ。アートの領域に踏み込むんだ。アートにチャレンジするには、まずイメージをすること。つくりたいヘアスタイルのフォルムやシルエットを思い描くこと。鏡に映るヘアスタイルのイメージを、頭のなかにつくりあげること。美容師にはイメージする力が何よりも重要なんだ。イメージがチープなものだったら、ヘアスタイルもチープになる。どんなに技術が優れていても、斬新で美しいヘアスタイルはつくれない。だからまず、イメージする力を鍛えなさい。そのためには見ること。ヘアスタイルだけじゃない。世の中のあらゆるデザインを見ること。写真やポスター、服やジュエリー、家具や建築にだってデザインはある。しかもそれらをただ見るのではない。“視る”んだ。じっと視る。視ることで、身体に写しとるんだ。豊かなイメージは、そこから生まれてくる。同時に、技術を磨くんだ。自分の手を使いこなすこと。自分の指先を道具にすること。イメージをかたちにするために、手を道具として使いこなす訓練を欠かしてはならない」
事実、シルヴィオのつくるヘアスタイルは型破りだった。
〔こんなヘアスタイルがあるのか〕
〔こんなヘアスタイルが許されるのか〕
シルヴィオの仕事を見るたびに、ヴィダルは驚愕する。だが驚くのはその独創性だけではなかった。型破りなスタイルは、どれもが美しいのだ。
〔なぜだろう〕
ヴィダルのなかにそんな疑問が湧き出てくる。
〔この絶妙なバランス感覚。その源は、なんだろう〕
その疑問を、ある日シルヴィオにぶつけてみる。すると次のような答えが返ってくるのであった。
「ヴィダル。よくそこに気がついたね。そう。ぼくの原点は、バランスにあるんだ」
「ですよね。バランスですよね。でもどうしたらこんな絶妙なバランスを生み出せるんですか」
「法則があるんだ」
「法則、ですか」
「うん。バランスを生み出す法則はふたつ。ひとつは骨格。もうひとつは黄金比だ」
骨格〈bone structure〉
黄金比〈Golden ratio〉
どちらも初めて聞く言葉だった。
つづく
☆参考文献
『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS
『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房
『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス
『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書
『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書
『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書
『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫
『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書
『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房