美容師小説

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­-第29話-­【1949年 南ロンドン】 <bone structure> 頭蓋骨とヘアデザイン

 コンテストにチャレンジする。それがヴィダルの目標となった。

 南ロンドンのシルヴィオ・カミロのサロン。そこに毎週通ってコンテストのための技術を学び始めた。授業料は週給の半分近くになる。だがヴィダルはそれ以上の価値を感じていた。

 たとえばシルヴィオは教える。美しく絶妙なバランスをつくり出すためには法則があるのだ、と。それは“骨格”と、“黄金比”。

 

 [コッカク?]〈bone structure ?〉

 ヴィダルは思わず聞き返していた。それほど意外な言葉だった。

 

 「そうだ。骨格だ。頭蓋骨の仕組みと特徴を学ぶこと。それが美しいバランスへの第一歩なんだ」

 そう言って、シルヴィオはヴィダルの頭に両手をかざした。10本の指を立てて、頭全体をつかむ。指の腹が、少しずつ位置を変えながらヴィダルの頭蓋骨を探る。

 「うん。そうだな。前頭骨に少し特徴がある。後頭骨のカーブは……うん……いい曲線だ」

 「先生、それがどうバランスに結びつくんですか」

 シルヴィオはヴィダルの頭を探りながら答えた。

 「頭蓋骨の表面に頭皮がある。その頭皮から髪は生えている。それが答えだ」

 「たしかに。だけどそれが……」

 ヴィダルの質問をシルヴィオはさえぎった。

 「頭蓋骨のかたちは人によって異なる。まさしく千差万別。それぞれに特徴がある。だからこそヘアデサインは、まず頭蓋骨のかたちを知ることからスタートするんだ」

 そう言って、シルヴィオはヴィダルの手をとり、自分の頭に乗せた。

 「これが私の頭蓋骨。君のと比べてごらん」

 シルヴィオの頭蓋骨は小さめだった。つづいてヴィダルは自分の頭を探る。ヴィダルの頭蓋骨は、シルヴィオよりも大きい。というか幅が広いように感じる。

 「頭蓋骨を構成する骨は、成人の場合、23個ある」

 「えっ?」[そんなにたくさんの骨が……]

 「そのうち6個は側頭骨の内側に包まれた耳まわりの骨だからヘアスタイルには関係ない。直接、ヘアデザインに関係する骨は8個」

 「8個もあるんですか」

 ヴィダルは純粋に驚いていた。頭蓋骨は全体でひとつの骨だと思っていたからだ。

 「まずここに前頭骨」

 そう言ってシルヴィオはヴィダルの額に手を当てた。その手が、ゆっくりと頭の上部に移動していく。

 「このあたりで縫合されて、ここが頭頂骨」

 シルヴィオの手は、頭のてっぺんに至った。

 「頭頂骨は左右にふたつに分かれていて、ほぼ真ん中で縫合されている」

 「縫合、ですか」

 ヴィダルは疑問に思った。骨を縫合する、などということがあるのだろうか。

 「そうだ。縫合だ。でも糸を使った縫合ではないよ。頭蓋骨では接合面のことを縫合と呼ぶんだ。しかも糸の縫合とは違って、移動をほとんど許さない厳密な接合を意味する」

 そう言ってシルヴィオはヴィダルの手を取り、今度はシルヴィオ自身の頭を触るように言った。

 「この頭のてっぺん。ここから頭頂骨の真ん中を額のほうに向かって探っていってごらん。縦に1本、浅い溝があるはずだ」

 たしかに、かすかな溝がある。

 「それが頭頂骨を左右に分ける縫合線だ」

 そう言いながら、今度はシルヴィオの手がヴィダルの頭の後ろ側、うなじにかけて動いていく。

 「ここが後頭骨。この後頭骨の隆起とカーブのライン。ここには明らかな違いがあるんだ。男女差だけではない。個人差もある。それがヘアデザインにも大きな影響を及ぼすんだ」

 

 頭蓋骨のことなど考えたこともなかった。ヴィダルの目の前にあったのは、つねに髪であり、顔であった。できるだけその人の顔に似合ったヘアスタイルをつくる。そう考えてきた。ところが、そこにシルヴィオは頭蓋骨の形状差を取り入れろと言うのだ。

 「ヴィダル。骨格は重要だ。まず人の骨格を知ること。それは美容師にとって、避けることのできないとても重要な要素なんだ」

 シルヴィオの両手が、今度は左右に分かれて頭の側面に触れる。耳の上から後ろへと動く。

 「ここが側頭骨。こいつが外に出っ張ると、ヘアデザインは少々やっかいなことになる」

 あぁ、とヴィダルは思った。

 「いますね、そういうかたちの人が。たしかにバランスをとるのはむずかしい」

 「うん。それはその人の悩みどころでもある。だからわれわれ美容師がバランスを整えてあげるんだ」

 

 頭のかたちは、頭蓋骨のかたち。考えてみれば当然のことだが、ヴィダルは今まで気づかなかった。骨のかたちを意識すること。骨の成り立ちを理解すること。それがヘアスタイルの、あるべきかたちを導いてくれる。それは大きな発見だった。

 

 さて、前頭骨、頭頂骨、後頭骨、側頭骨。これで4つ。

 「大事な骨は8個ですよね。他の4個はどこにあるんですか」

 「4個じゃない。あと2個だよ。これまでにもう6個、出てきている。頭頂骨と側頭骨は、それぞれ2つに分かれているから、2種類で4個ととらえるんだ」

 「えっ。2つに分けて数えるんですか」

 「もちろんだ。両方とも左右に分かれているだろう。ということは、それぞれの骨の上に生えている髪は、左右別々の方向に向かっている。つまり独立した骨だと見るべきなんだ。しかもそのかたちは、厳密に言うと左右対称ではない」

 驚いた。シルヴィオはそこまで細かくヘアデザインを考えるのか。しかもそれはデザインのずっと手前ではないか。ヴィダルは聞かずにはいられなかった。

 「骨はヘアの土台のようなものですよね。どうしてそこまでこだわるんですか」

 「土台だからさ」

 そう言ってシルヴィオは楽しそうな顔になった。

 「われわれ美容師の仕事はヘアデザインだ。同じようにデザインをする仕事がある。たとえばアーキテクト」

 「architect?」<建築家……?>

 「建築家は建物をつくるとき、何から始める?」

 「設計<design>でしょうか」

 「うん。そうだね。半分正解だけど、半分足りない」

 「半分……」

 「建築家はまず構造設計<structural design>からスタートする」

 「structural design」

 「建物を建てる地盤の分析と改良、建築物の構成とその力学的構造……」

 「つまり土台のデザイン」

 「そう。ヘアスタイルも同じなんだ。構造設計が必要なんだ」

 「ヘアの構造設計、ですか」

 「まず骨格。これは地盤にあたる。ヘアデザインは地盤のかたちに合わせた構造設計からスタートするんだ」

 「地盤に合わせた構造設計……」

 「建築物の地盤は改良できる。土や岩だからね。もしそこにイメージ通りの建物が建てられない場合は改良する。そうだろう?」

 「たしかに。掘ったり、削ったりできますからね」

 「だけど骨格は改良できない」

 「ムリですね」

 「じゃあどうする?」

 「はぁ」

 「手術でもするかね?」

 「まさか」

 「ははは、冗談だよ。でもね、ヘアの場合は地盤(骨格)を利用してデザインできるんだ。自由自在にね」

 「自由自在、ですか」

 「そうだよ。それが美容師の腕の見せ所じゃないか」

 そう言ってシルヴィオは、ヴィダルの短い髪を引っ張り始めた。

 「こうして伸ばしたり、縮めたり、巻いたり、立てたり、束ねたり……。ほら、自由自在じゃないか」

 シルヴィオの手の動きと、笑顔を見ながらヴィダルは思った。

 [この人は美容を心から楽しんでいる]

 シルヴィオはつづける。

 「骨格を知ること。骨格に合わせること。骨格を利用すること。それが美容師の基盤なんだよ」

 

 新鮮な驚きだった。骨格が、ヘアデザインの基盤となる。

 ヴィダルにはそのイメージができた。とくに建築にたとえた話には、わくわくした。

 ヴィダルは14歳のとき、母親の勧めで美容師になった。だけどほんとうは建築家になりたかったのだ。建築家か、サッカー選手。それがヴィダルの夢だった。その夢のすぐ近くに、自分は今いるのかもしれない。そう思えたのだった。

 だけど、とヴィダルは思った。具体的にどうすればいいのか。どうすれば骨格をデザインの基盤にできるのか。そもそも骨格を基盤としたヘアデザインとはどのようなものなのか。

 わからなかった。

 

 たしかに、シルヴィオのデザインは秀逸だった。見事にバランスがとれていて、美しかった。たとえ奇抜なデザインでも、必ず美しい。人の目を惹きつける魅力にあふれている。だけどそのデザインが、どのように骨格を活かしているのか。ヴィダルには見えなかった。写真だけではまったくわからなかった。

 

 次週の授業まで、ヴィダルは1週間の独習に入る。

 [さて、どこから手を付けたらいいのか]

 モデルの頭に、ヴィダルは両手の指を這わせた。何度も何度も這わせた。モデルは当初、怪訝な表情を浮かべ、やがて嫌悪の顔に変わっていく。気づいたヴィダルは手を止め、顔を赤らめながら言い訳を始める。

 「いや、これは骨格を確かめているんです。へんな意味はありません。ホントです」

 そう言いながら、今度はコームで髪をすくい、その根元を見つめる。頭の中ではシルヴィオの言葉が響いている。

 [[頭蓋骨の表面に頭皮がある。その頭皮から髪は生えている。それが答えだ]]

 

 たしかに、髪は頭皮から生えていた。たとえば側頭部。シルヴィオはこう言った。

 [[頭頂骨と側頭骨は左右に分かれている。ということは、それぞれの骨の上に生えている髪は、左右別々の方向に向かっている]]

 調べてみた。たしかに側頭骨上の髪は左右別々に……。

 「ん?」

 コームを持つ手が止まった。

 顔の右側の髪と、左側の髪。同じようにそれぞれ下の方へとまっすぐに流れている、と思っていた。しかし、違うのだ。右と左の側頭部の髪。すべてが左右対称で同じ方向に流れているわけではない。耳の上部はたしかに下向き。だけど少し前方に移動すると斜め前に向かって流れていたりする。

 ヴィダルはすぐに頭頂部へ視線を移した。指先で頭頂骨の中心にある“縫合線”を探り当て、そのあたりの髪をコームで分けてみる。

 「あっ」

 ヴィダルは思わず声をあげた。

 [髪は縫合線を境に分かれているわけではない!]

 

 どういうことだろう。骨格の上の頭皮に生える髪は、一定の法則に沿って流れているわけではなかった。翌日も、その翌日も別のモデルで調べてみたが、髪の流れはそれぞれバラバラだった。

 その事実を、翌週の授業でシルヴィオにぶつけた。

 「髪の毛の流れは、人によってさまざまです。そこに法則性はないようなのですが」

 「もちろんだ。法則性はない。だからこそ、ヘアデザインはおもしろいんじゃないか」

 ヴィダルは混乱した。シルヴィオは骨格の概要を教えてくれた。ヘアデザインに関わる8個の骨と、その構成。[あれ? 教わったのは6個じゃないか?]

 

 頭蓋骨のかたちは千差万別だと聞いた。だがその構成には一定の法則があった。その法則を理解すれば、シルヴィオのような美しいデザインの土台ができる。そう思っていた。思い込んでいた。骨格を理解した以上、美しいデザインは思いのままだ……。

 しかし、その共通の土台の上に乗る髪の毛。最も重要な髪の毛の流れがバラバラなのだ。これではデザインのしようがないではないか。

 その疑問を、シルヴィオにそのままぶつける。するとシルヴィオは、笑顔で返すのだった。

 「ヴィダル。君は同じ骨格の上に同じ方向に流れている髪を、同じデザインにまとめたいのかね?」

 「いや、そんなわけでは……」

 「同じ長さ。同じかたち。同じヘアスタイル。顔さえも同じかね。それでは人形じゃないか。君は人形の髪を切りたいのかね?」

 「まさか……」

 「じゃあどうしてそんな疑問を持つんだい?」

 「………」

 答えられなかった。いや、ヴィダルのなかでは答えが出ていた。そのとき、はっきりと見えたのだ。自らの浅ましさが。

 [ぼくはコンテストに勝つことしか考えていない]

 

 ヴィダルはコンテストのためにシルヴィオの教えを受けていた。コンテストに勝つために、高い授業料を払っていた。だからこそ、頭のなかではいつも[コンテストに勝つための方法]を求めていた。しかし、シルヴィオの教えはもっと深く、もっと広いものだったのだ。

 「君はコンテストに勝つために、美容師になったのかい?」

 シルヴィオが静かに聞いた。

 「いえ、けっしてそうではありません」

 「じゃあなぜ、性急に答えを求める?」

 答えるまで、少し時間が必要だった。

 「それは……コンテストに勝つための方法が知りたいからです」

 「うん。そうだね。つまり君は目的と手段を混同している。コンテストに勝つために美容師になったわけじゃないのに、今は何よりコンテストに勝つ方法を求めている。おかしくないか?」

 「はい。おかしいです」

 そう言いながら、ヴィダルは考えた。

 [どうしてこんなことになってしまったんだろう]

 

 ヴィダルは[世の中を変える]ために、美容の世界に戻ってきた。コンテストにチャレンジするのは、自分の現在の位置を確かめたかったからだ。ただそれだけだった。自分が学んだこと、練習してきたこと。その成果を確かめたかった。だからコンテストはただのものさし。通過点。

 だけど、と言うか、だからこそと言うべきか、コンテストには勝ちたかった。挑むからには負けたくはなかった。将来、[世の中を変える]美容師が、コンテストで負けているわけにはいかない。いつかそう思うようになっていた。だから求めた。勝つための方法があるなら、欲しかった。それがシルヴィオにはよく見えた。シルヴィオは、そんな小さなことにこだわる“生徒”を許さなかった。

 「コンテストにチャレンジするのは、勝つためではない。コンテストに勝つために学び、励み、闘うこと。そのプロセスが美容師を育てるんだ。勝ち負けはあくまでも結果に過ぎないんだよ」

 それがシルヴィオの哲学であり、信念だった。

 

 「ヴィダル。髪は千差万別なんだ。それがすべての前提なんだ。だれ一人として同じ髪を持っている人はいない。骨格はもちろん、毛流も毛質もまったく違う。だからこそ、“デザイン”なんだ。そこがおもしろいんだ。美容師は、目の前のお客と向き合い、異なるすべての条件を知り、受け入れてなお美しいデザインを創造しないといけない。いや、創造することができるんだ。それが美容師の、ひとつの醍醐味じゃないのかね」

 「まさしくその通りです。ほんとに、ぼくはどうかしてました」

 「いや、気づけばいいんだ。間違うことはだれにでもある。大事なのはその間違いに気づくこと。誤りに気づけば、正すことができるからね」

 「気づかせていただいてありがとうございます」

 「で、どうしよう。そろそろ次のテーマに移るかね?」

 「黄金比、ですか」

 「そうだ」

 「いや、先生。その前に骨のことを教えてください。8個のうち、まだ6個しか教わってません」

 「あ。そうか。そうだったかな。まぁ、最後の2つは、大きな要素ではないんだ」

 そう言って、シルヴィオはヴィダルの耳たぶの後ろに指先を当てた。

 「ここに、ちいさな突起があるだろう。これが乳様突起だ。これが左右にひとつずつ。これで8個だ」

 ヴィダルは自分の指で確かめてみた。たしかにコリコリとした骨が耳たぶの後ろ側にある。だが、そこに髪の毛は生えていなかった。

 「これがヘアスタイルにどう関わっているんですか?」

 「いや、ほとんど関わっていない。ただ、この突起も頭のかたちを形成する要素のひとつでね。ヘアデザインを考えるときに気にする要素のひとつではある。とくに私の場合はね」

 乳様突起のすぐ隣に、顎の骨の始まりがあった。どうやらシルヴィオが言うとおり、乳様突起はそれほど関わりがないのかもしれない。

 

 「では先生、毛流のことを教えてください。まったく異なる毛流を、いかにコントロールするのか」

 「そうだね。コントロールするために頭のなかに入れておくべきこと。それが黄金比なんだ」

 そう言って、シルヴィオは紙を取り出し、そこに定規で1本の直線を引いた。

 ヴィダルは身を乗り出した。

 

 


 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

 

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