美容師小説

美容師小説

-第32話-­【1953年 ロンドン】 コンテストに挑戦する日々が、終わった。

 ヴェラは『デュマス』に通い始めた。ボスのフランクは、当たり前のようにヴェラを自分のモデルとして迎えていた。ところが、そのヴェラをめぐって事件が起こる。

 

 ある日、レセプショニストがヴィダルを呼んだ。

 「ヴィダル、電話よ。アーサー・メイソンさま」

 「えっ、アーサー?」

 レセプションに向かって歩きながら考えた。

 [彼がぼくに何の用だろう]

 

 アーサー・メイソン。ヴィダルが反ファシスト運動に身を投じていたころに知り合った闘士だった。若きボディ・ビルダーで、イーストエンドでは指折りの力自慢だ。Tシャツを破らんばかりに張り出す大胸筋と、太い腕。ヴィダルはその雄姿を思い出していた。

 

 「やぁアーサー、元気かい? 突然どうしたんだい?」

 ヴィダルは受話器を受け取ると陽気に語りかけた。するとアーサーの大声が耳を震わせる。

 「ヴェラに手を出すんじゃねぇ! あいつはオレの女だ!」

 驚いた。ヴェラはアーサーと付き合っていたのか。

 「なんだ、そんなことか。アーサー、それは誤解だよ」

 「ふざけんな!」

 「アーサー、聞いてくれ。これは純粋に仕事なんだ。彼女はコンテストのためにヘアスタイルのモデルになっているだけなんだよ」

 しかし、アーサーは聞く耳を持たない。

 「うるせぇ! おまえ、おぼえてろよ!」

 

 

 アーサーがサロンにやってきたのは、それから数日後のことだった。その日もヴェラはサロンにいて、事務所でボスと打ち合わせをしていた。

 「ヴェラはどこだ!」

 サロン中に大声が響く。レセプショニストは真っ青な顔で後ずさりしている。

 [まいったな、来ちゃったよ]

 ヴィダルは仕方なく、レセプションへと向かった。アーサーの前に立つと、耳許に口を近づけてささやいた。

 「アーサー、君は誤解しているんだ。ここでそんな大声を出してはいけないよ」

 やさしく言った。

 「そうか?」

 アーサーが答えると同時にヴィダルは吹っ飛んだ。あごに強烈なパンチを喰らったのだ。サロン内に悲鳴がこだまする。レセプションデスクに叩きつけられたヴィダルに向かってアーサーが突進してきた。2発目のパンチを繰り出すアーサーを、ヴィダルはぎりぎりのところでかわす。アーサーとまともに殴り合って勝てる男はいない。ヴィダルはとっさに動いた。アーサーに身体をぶつけるように接近し、抱きつくようなかたちで懸命にしがみつく。アーサーは闇雲にパンチを振るうがヴィダルの顔面をとらえることはできない。そこでアーサーはヴィダルとともに倒れ込む。そうしてヴィダルの身体を床に打ちつけ始めるのだった。

 ヴィダルは反撃に出た。アーサーの首に噛みついたのだ。圧倒的なパワーを発揮するアーサーに対抗する武器は、歯しかなかった。

 「ウォー」

 アーサーは野太い悲鳴をあげる。ふたりはもつれあって床を転がる。勇気あるお客さまがふたり、手にした傘をアーサーめがけて打ち下ろす。ところがアーサーには当たらない。彼女たちの怒りと敵意に満ちた攻撃は、ほとんどの場合ヴィタルを直撃してしまう。それでもヴィダルはその首筋に噛みついたままだ。ふたりの身体はごろごろとフロアを転がり、レセプションデスクに激しくぶつかる。その衝撃で、重いデスクが倒れてきた。ちょうどヴィダルの足の上に。

 あまりの衝撃に、ヴィダルの口は開いた。歯が、アーサーの首筋を解放する。アーサーは立ち上がった。ヴィダルはデスクの下敷きだ。そこへ警官が駆けつけた。

 

 サロンの真ん中で、ヴェラとフランクが呆然と立ち尽くしていた。床にはたくさんの血痕が残っていたが、そのほとんどはヴィダルのものだった。警官がふたりがかりでデスクを立てる。しかしヴィダルは立てなかった。

 

 

 仕事に復帰するまで2週間かかった。1週間はベッドの上。つぎの1週間は足を引きずりながらなんとか歩けたが、仕事には行けなかった。その間、警官がやってきてヴィダルに聞いた。

 「ミスター・メイソンを告訴しますか?」

 ヴィダルは最初、その意味がわからなかった。

 「告訴? とんでもない。彼は友だちだ。いや、友だちだった」

 

 

 仕事に復帰できたのは、事件から2週間後のことだった。『デュマス』に出勤すると真っ先にボスが声をかけてきた。事務所に招き入れると、こう聞いてきた。

 「ヴィダル、たいへんだったな。もう、足はいいのか?」

 「はい、だいじょうぶです」

 「顔のアザも、引いてきてるようだな」

 「まだ少し痛みますが」

 「そうか。で、これなんだけど……」

 そう言ってフランクは、封筒を手渡す。

 「休んだ2週間分の給料だ。その間のコミッションに相当する手当も入っている」

 「えっ? ほんとうですか」

 「あぁ、ほんとうだ。受け取ってくれ」

 予想外の出来事だった。休んだら無給。それが『デュマス』のルールなのだ。

 「ありがとうございます。助かります」

 「いや、礼はいらないよ。さぁ仕事だ」

 ヴィダルは思いがけない“ボーナス”を手にした。

 [ボスはやっぱりヴェラのことで負い目を感じているのかな]

 

 ヴェラとフランクは、コンテストで他を圧倒する成績を収めていた。フランクの技術に加えて、ヴェラはステージの上から審査員を見下ろし、挑発する。

 “私に投票しないなんて、どういうつもり?”

 もちろんそれを言葉として発するわけではない。だが、その類い稀なるルックスと雰囲気、態度と表情が審査員の目を釘付けにしてしまうのだった。

 

 うらやましかった。心底、うらやましい。

 予期せぬ収入はありがたかったが、ヴィダルは困っていた。次のコンテストのためのモデルを探さなくてはならないのだ。しかも早急に。2週間のブランクが最も響いたのは、モデル探しだった。

 

 難航した。なかなかモデルが見つからない。コンテストは刻々と迫ってくる。

 妥協した。スタイルはすばらしいが、顔のつくりはごく平凡な女性。もう時間がなかった。

 

 ヴィダルはコンテスト用のスタイルをつくる。だが、うまくいかない。インスピレーションが湧かないのだ。

 

 コンテスト前日の夜。ヴィダルは最終形のヘアスタイルをつくっていた。そこへ同僚のジェラード・オースチンがやってくる。ジェラードはモデルの周囲をゆっくりと周りながらヴィダルの“作品”を見ると、言った。

 「ヴィダル、失敗だ」

 カチンと来た。ヴィダルは即座に反論を始める。まず今回の審査員たちの名前を挙げて、各々の特徴を述べた。それからモデルの頭をいくつかのセクションに分けながら、意図を説明するのだった。

 しかし、饒舌に語れば語るほど空しくなっていく。その様子にジェラードは、冷ややかな視線を投げる。

 「わかった。わかったよ、ヴィダル。だけどこれは失敗だ」

 

 翌日のコンテスト。審査員たちの評価は、ジェラードと同じだった。成績は38人中36位。

 

 それまでの自信は砕け散った。ヴィダルはホテルから早々に退散しようとした。すると目の前に、もうひとりの友人が現れた。ロバート・イデール。シルヴィオのサロンで共に学んだコンテスト挑戦の“戦友”である。

 「ヴィダル、気にするな。コンテストはこれが最後じゃない。また次があるさ」

 だがその慰めは、ヴィダルには入っていかなかった。

 「次なんかないさ。ぼくは終わりだ。もうダメだ。どうしてぼくは美容師になんかなってしまったんだろう。世界には飢えた子どもたちがたくさんいて、罪もない人たちがたくさん死んでいるというのに。美容師にいったいどんな意味があるっていうんだ」

 むちゃくちゃだった。言葉が、ヴィダルの意志とは無関係に飛び出してくる。ロバートは忍耐強く言った。

 「なぁヴィダル、お願いだからそんなこと言わないでくれ。ぼくらはシュバイツァー(※)じゃないんだ。美容師なんだ。美容師だってすばらしい職業だ。美容師は人をきれいにできるんだ。人をしあわせにできるんだ。そのどこが悪いというんだ」

 「ぼくには無理だ。できないんだ。もう決めた。ぼくはイスラエルに行く。イスラエルに行ってキブツ(※)で生活する。農業をやる。オリーブをつくる。道路工事をやる。ヘアスタイルをつくる以外の仕事だったらなんでもやる」

 「ちょっと待ってくれ。なぁヴィダル、本気で言ってるのか。いいか、君は美容師だ。しかもこれまでたくさんの賞に輝いてきた優秀な美容師だ。君はぼくに言ったよな。美容で世の中を変えるんだ、と。ヘアスタイルに革命を起こすんだ。歴史を変える美容師になるんだ、と。その言葉をぼくは、今でも信じているよ」

 

 混乱していた。頭のなかはぐるぐる回っている。

 ヴィダルはその夜、『デュマス』にも家にも戻らなかった。終夜営業のカフェを見つけると、ひとりでボックス席を占領した。コーヒーをオーダーし、頭を抱えて一夜を過ごした。

 

 その夜、ヴィダルはひとつの結論を出した。

 [コンテストに挑戦する日々は、もう終わった]

 

 朝が来た。ボックス席にも陽光が差し込んでくる。

 エッグサンドを頼んだ。ヴィダルは自分が腹を空かせていることに驚いた。

 どんなに辛いことがあっても朝はやってくる。どんな人にも、陽光は降り注ぐ。ヴィダルはシャワーを浴びるため、いったん自宅に戻った。

 

 

 あたらしいスーツを着て、靴を磨く。『デュマス』にたどり着いたのはオープン直前だった。すぐにお客さまがやってくる。

 シャンプーを終えたお客さまに、いつものようにあいさつをした。鏡の前のイスに、座ってもらった。カットクロスをかけた。その過程でお客さまの顔と髪を、鏡を通してのぞき込む。

 いつもなら一瞬にしてイメージが湧いてくる。頭のなかにいくつものヘアスタイルが現れる。そのなかから最適の、最善のスタイルを選べばいい。あとはそのイメージに向かって手を、指を、レザーを、ハサミを動かすだけだ。

 だが、その日は違った。イメージはただのひとつも湧いてこない。それどころか鏡のなかのお客さまの顔も、髪も見えてこない。

 イメージが湧かないときは、手を動かす。それがヴィダルの経験則だった。髪の感触を指で感じ取るうちに、イメージが湧いてくるのだ。両手の指を髪に通すだけで、髪が欲していることがわかる。だから時には髪が欲するままに、スタイルをつくる。ヴィダルの指は、髪と自在に対話ができるのだった。

 ところがその日、髪は何も伝えてこなかった。伝えてこないだけではない。指が髪に通らない。

 [えっ?]

 ヴィダルは戸惑った。こんな感覚は初めてだった。

 [髪がぼくを拒否している]

 

 それでもヴィダルはハサミを手にした。レザーではなく、セニングシザーズでもなく、シザーズ。それで強引に髪を切ろうとした。左手の人差し指と中指で毛束をつまみ、切る。だけど、切れない。ヴィダルはハサミを見つめた。再び、チャレンジ。切れない。いや、毛束は床に落ちている。つまり、髪は切れているのだ。しかし、違う。いつもと違う。髪が、切られることを拒否している。ハサミを、跳ね返そうとしている。

 冗談じゃない。ヴィダルはこころのなかで叫び始める。

 [どうなってるんだ。いいかげんにしろ。オレは美容師だ。オレはおまえをハサミで切る。切るんだ]

 どんなに強い意志を示しても、髪は言うことを聞かなかった。

 

 いつの間にか、ヴィダルの背中には汗が流れていた。額にも、首筋にも汗が流れた。肩や腕はこわばり、ハサミを持つ手が震え始めた。

 「あぁっ」

 ついに、ヴィダルの口から声がもれた。その瞬間、ヴィダルはハサミを放り投げた。

 [あっ]

 そう思ったときはもう遅かった。ハサミはヴィダルの手を離れ、宙を舞った。あわててヴィダルはその行き先を目で追う。するとハサミは、ヴィダルの真上の天井に突き刺さった。

 呆然と見上げるヴィダル。ハサミは落ちてこない。見事に刺さっている。

 

 怖くなった。

 [こんなことがあるのか]

 無造作に投げ上げたハサミが、天井に刺さる。ナイフではない。ハサミだ。

 そのまま事務所へと向かう。ロッカーからマフラーとコートを取り出すと、サロンのなかを無言で突っ切って外へ出た。

 

 それはまるでランチにも出かけるような動きだった。だが、ランチではなかった。ヴィダルのお客さまは鏡の前で、カットクロスをかけられたまま固まっている。サロン内は静まり返り、みな何が起きたのかわからずにいる。

 ヴィダルにもわからなかった。

 

 ひとりで、アルバマール通りを歩いた。まっすぐに銀行へと向かい、預金をおろした。そしてそのまま港へ。

 ヴィダルは船に乗った。

 行き先はフランスの港町・カレー。

 目的地はパリだった。

 

つづく

 

 

 

シュバイツァー(※)

ドイツ系の神学者・哲学者・医師。キリスト教の伝導と、アフリカでの医療活動に生涯を捧げた。哲学でも業績を残し、『生命への畏敬』という概念で世界平和にも貢献。1952年度のノーベル平和賞を受賞した。

 

キブツ(※)

イスラエルの集産主義的協同組合。理想郷をめざす社会主義的な実験であり、歴史上最大の共同体運動のひとつといわれる。

 


 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal  Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

 

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