美容師小説

美容師小説

-第33話-【1953年 パリ】 ヘアスタイルが追いかけてくる。

 ヘアのことは考えない。忘れ去ってしまう。それがパリに来た目的だった。昼間はアートギャラリーを巡り、夜はクラブで遊ぶ。そんな日々を過ごすのだ。

 

 サン・ミシェル大通りのカフェに陣取り、ヴィダルは計画を立てた。

 まずはルーブル。2〜3日かけて観てまわったら、次はマルモッタン美術館。そこでモネを見たら、エッフェル塔。そこからロダン美術館。翌日は足を伸ばしてギメ美術館……。

 わくわくしていた。これでヘアのことを完全に忘れられる。そう思った。しかも夜はクラブに繰り出すのだ。片言のフランス語でパリジェンヌと会話して、踊りまくる。映画館にも行く。劇場にも行く。とにかく美容以外のことならなんだってやる。ヴィダルは、自分が美容師であることも忘れようとしていた。

 

 

 翌日、ヴィダルはルーブル美術館へ向かった。入館するとゆっくり、マイペースで館内を歩いた。

 ぜんぶ観てまわるのに何日かけてもいい。そう思っていたから、作品ごとに足を止め、眺めた。たくさんの絵画や彫刻。古代エジプトやギリシャの作品群。どれもが興味深く、飽きることはなかった。

 “モナリザ”と“ミロのヴィーナス”。この2つは最後に観る。しかも開館直後の、観光客が少ない時間帯に。そう決めていた。だから両作品の展示場所に到達しても、人だかりの後ろを通って次の展示物へと急いだ。

 

 作品の大海を泳いだ。自在に泳ぎ回った。だがそのうちに、ヴィダルは戸惑い始める。絵画を観ても彫刻を観ても、視線が“頭”に行くのだ。ヘアスタイルを見てしまうのだ。

 

 古代からルネッサンスを経て、近代に至るさまざまな作品群。人を描いたすべての作品にヘアスタイルがあった。スカーフや帽子などで覆われた頭もたくさんあったが、それでも髪は描かれていた。

 頭の中から消し去ろうとすればするほど、ヘアスタイルは追いかけてきた。2000年前も3000年前も人は髪を切り、髪を整えていた。

 

 ルーブルに通い始めて3日目のことだった。ヴィダルは開館前にルーブルのエントランスに到着した。観光客であふれる前に入館するのだ。しかし、そこには同じことを考えている人たちがたくさんいた。それは観光客ではなかった。学生だった。大きなスケッチブックを抱えた学生たちだった。彼らは作品をスケッチするのだ。そしてヴィダルは作品を、観る。

 

 まっすぐに“モナリザ”へ向かう。どこにあるかはもう頭の中に入っていた。ひっそりとした薄暗い壁の真ん中に、“モナリザ”がいた。まだ、だれひとりその絵の周りにはいなかった。

 [意外と小さいな]

 それが最初の、率直な感想だった。

 

 静かだった。ヴィダルは“モナリザ”と見つめ合った。最初に惹きつけられたのはその目と唇だった。だが視線はどうしてもその両側に描かれた髪に行こうとする。そこでヴィダルは少し、絵から離れた。すると三角形が見えてきた。重ねられた両腕を底辺とする三角形。ヴィダルはなんとか、髪を観まいとした。だが、その努力は報われなかった。

 

 額の上の真ん中で、髪は左右に分けられていた。まっすぐな髪。だが側頭部に到達するころから、その髪は波打ち始める。細かいウェーブが胸の始まりにかけて舞い降りている。

 [この髪を]、とヴィダルは考えた。

 [顎の先端の長さでカットすればどうだろう]

 バランスが悪いような気がした。

 [ならば、ストレートだったらどうだろう]

 このやわらかで、ふくよかな雰囲気が崩れてしまう。

 “モナリザ”の前で、ヴィダルは自分の右手を掲げて動かしつづけた。手で髪のいろいろな部分をさえぎって、長さを調整してみた。だが納得のいくバランスは発見できなかった。

 [だけど何かあるはずだ]

 [バランスの良い、違う髪型が]

 頭の中は完全に美容師に戻っていた。その事実に気づくと、それを振り払うかのように頭を振った。

 

 ヴィダルは“モナリザ”から離れた。次の目的地は“ミロのヴィーナス”。

 たどり着くと、すでに10人を超える学生が“ヴィーナス”をやや遠巻きに取り囲んでいた。みなフロアに座り込んで、スケッチブックを拡げている。その中にひとり、立ったまま描く若者がいた。

 最初は[少年か]、と思った。まっすぐな黒髪がとても短く刈られていたからだ。しかしその胸は、白いシャツを少しだけ持ち上げていた。

 

 

 “ミロのヴィーナス”。正式名称“アフロディーテ”。ギリシャ神話で愛と美と性を司る女神だ。

 7フィート近くもある身長(202cm)。バランスのとれた体型。たくましい腰。うつくしい乳房。長い首。そして完ぺきに整った顔。

 両腕はなかったが、それが逆に肉体の美しさやバランスを強調している。

 

 見とれていた。しばらくの間、見とれていた。そして視線はやはり髪に行く。

 ショートヘアである。横から見ると、ウェーブがかかった髪は風になびくように後ろへと流れている。だが、単に後ろに流れているわけではない。後頭部で毛先はまとまり、少しだけ上へと向かっているようにも見える。

 [おもしろい]とヴィダルは思った。この髪は固めているのではない。強い風になびいた髪が、フォルムをつくっているのだ。その一瞬を切り取り、彫り上げた髪型。ヴィダルには、今にも髪がゆらゆらと揺れ始めるように見えた。

 

 飽きなかった。ヴィダルは画学生たちの邪魔にならないように気をつけながら、“ヴィーナス”の周囲をゆっくりとまわった。

一周して、再び正面に戻った。そこにはさきほどの少年のような女性が、相変わらずまっすぐに立ったまま、スケッチをつづけていた。

 

 [ん?]

 ヴィダルの目がその女性の手に留まった。どうやら彼女は定規を持っている。それを目の前にかざして何かを測っては、スケッチブックにペンを走らせているのだ。

 ヴィダルは後方から静かに近づいてみた。彼女の真後ろの、少し離れた位置に立つ。

 驚いた。彼女のスケッチブックは方眼紙だった。そこに彼女は頭、首、肩、胸を描いている。どうやら目測に定規の助けを借り、寸法を測って書き入れているようだ。

 ヴィダルは腕を組み、しばらくその動きを見つめていた。方眼紙にはやがて、“ヴィーナス”のへそが描かれ、下半身を覆った布が描かれる。

 全体を描き終えると、彼女はフロアに座り込み、定規をあてて今度は直線を書き込み始めた。

 

 彼女の絵は、他の画学生とはまったく違っていた。ディテールを正確に描き写すのではない。どうやら彼女は“ヴィーナス”をパーツに分け、その大きさの比率を求めようとしているようだ。

 描かれた“ヴィーナス”の絵からは、5本の直線が真横に向かって伸びている。まずは頭頂部から。次に顎から。へそから。左足の膝頭から。そして最後は足下から。計5本の横線を描くと、彼女はその間隔を定規で測り始めた。

 

 ヴィダルは女性にそっと近寄り、方眼スケッチブックをのぞき込んだ。女性は測った数字を書き込むと、割り算の式を書いて計算を始める。やがて横線の間には、数字の「1」と「Φ」という記号が書き込まれた。

 「Φ」(ファイ)。それはあのシルヴィオに教わった“黄金比”を表す記号だった。

Φ= 1.618……。

 

 女性は“ヴィーナス”の顎からへそまでの間隔に「1」と書き込んだ。つづいて頭頂部からへそまでの間隔には「Φ」。

 次に頭頂部から足下までの全長に「Φ」。へそから足下までの間隔に「1」。

 なんと“ミロのヴィーナス”は黄金比のかたまりだった。

 

 「Wao!」

 ヴィダルは思わず声を出した。女性はビクッと身体を震わせ、後ろを振り返った。

 「Sorry」<ごめんなさい>

 ヴィダルは英語で言ってしまった。

 女性はぶ然とした表情でスケッチブックを閉じようとした。

 「Golden Ratio」<黄金比>

 また英語が出た。フランス語で黄金比をどう言えばいいのか、わからなかったのだ。女性はもう一度、ヴィダルを見た。そして短く答えた。

 「Yes」

 英語が返ってきた。

 「You speak English ?」<英語、話しますか>

 聞いてみた。フランス人はなかなか英語を話したがらない。

 「Yes」

 また短く答える。

 よかった。英語が通じる。

 「おもしろいじゃないですか。とっても興味深い。ミロのヴィーナスが黄金比でできているなんて」

 女性はなかなか警戒を解かない。じっとヴィダルを見上げている。

 「ごめんなさい、のぞき込んだりして。ただ、つい引き込まれてしまって。ぼくもちょうど黄金比のことを勉強していたところだったので」

 「あなた、仕事は?」

 初めて「Yes」以外の言葉が出てきた。

 「あ、建築をやってます。ロンドンで、ですけど」

 嘘が簡単に口から滑り出す。美容師だとは言いたくなかった。

 「あら、私は建築大学の学生です」

 

 [まずい]と、ヴィダルは思った。

 「ラ・ヴィレット。国立パリ建築大学ラ・ヴィレット校です」

 女性はそう言いながら、目をきらきらさせ始めた。

 「あぁ、そうですか。それはすばらしい」

 ヴィダルの両脇から汗が出てきた。

 [知らなかった。パリには国立の建築大学があるのか。それよりもこの場をどう切り抜けるか。それが問題だ。ぼくは建築のことなど、詳しくなんかないぞ]

 ヴィダルの目は左右に彷徨った。逆に女性の目は、さらに輝く。

 「独立した建築家の方ですか。それとも建築事務所に勤めていらっしゃる?」

 「えっ、あ、いや、そうですね。ハイ、事務所に勤めてます」

 しどろもどろのヴィダルに、女性はたたみかける。

 「どんな建築を? 商業施設? それとも住宅ですか?」

 「えっと、主に住宅を」

 「あらステキ。私も住宅の建築をやりたいんです」

 ますますマズい。ヴィダルはその場から逃げ出したくなっている。

 「パリには旅行ですか? それともお仕事?」

 「りょ、旅行です」

 「コルビュジエ?」

 ヴィダルは混乱し始めた。

 [コルビュジエ? なんのことだ? フランス語か?]

 答えられなかった。

 黙っていると女性の顔から笑みが消えた。

 「すみませんっ!」

 ヴィダルは観念した。もう無理だ。限界だ。

 「建築事務所というのは嘘です。ほんとうは、ぼくは、美容師なんです」

 

 女性の両眉が中央に寄り、眉間に2本の縦ジワができた。

 「美容師?」

 「えぇ、そうなんです。ごめんなさい」

 「どうして嘘を?」

 「どうしてだろう。ぼくは美容師の仕事を忘れるためにパリにやって来たんです」

 「忘れる、って。お休みをとったということ? それとも……」

 「辞めようと思っていた。美容師の、なにもかもがイヤになった」

 「思っていた、って。今は辞めようとは思ってないのかしら」

 「わからない。だけどヘアスタイルがぼくを追いかけてくるんだ。モナリザを観ても、ヴィーナスを観ても、最終的には必ずヘアスタイルに目が行く。ぼくがつくるとしたら、どんな髪型? なんて、いつの間にか考えているんだ」

 「くっ」

 女性がちいさく笑った。眉間のシワは消えている。

 「職業病ね」

 「ああ、そうだ。職業病だ。ぼくは病気なんだ」

 「でも、それはいい病気だと思う」

 「いい病気?」

 「そう。それだけその仕事を愛しているということだから」

 「愛してなんかいないよ」

 「そう?」

 「愛してなんかいない。さっきまでそう思ってた」

 「思い込もうとしていた?」

 「そう」

 「では質問を変えます。なぜ、建築をやってると言ったの?」

 「それは……。子どものころの夢だったから。フットボールの選手か、建築家。今でも建築は好きだよ。ロンドンは今、復興の真っ最中でね。あたらしい建物がどんどん建っている。そのひとつひとつがとっても興味深いフォルムでね」

 「あら。じゃあまったくの嘘じゃないわけね」

 「いや、嘘さ。建築は職業じゃない。ただ、好きなだけだ。その証拠に、さっきあなたが言った“コルビなんとか”がわからなかった」

 「あぁ、コルビュジエね。ル・コルビュジエ。フランスの偉大な建築家の名前よ」

 「そうか。人の名前だったのか。ぼくはフランス語のなにかだと思って、焦ったんだ。じつはフランス語はあまり話せなくて……。そういえばどうしてあなたは英語なのかな? フランス人じゃないの?」

 「アメリカ人よ。パリには留学で来てるの」

 「よかったら名前、教えてもらえるかな。ぼくはヴィダル。ヴィダル・サスーン」

 「メラニー。みんなはメルって呼ぶけど」

 「じゃあ、メル。教えてもらえるかな。ル・コルビュジエのこと」

 「いいわよ。でも午後は授業があるから、夕方でいい?」

 「もちろん」

 「じゃあ5時半に、ルーブルの入口で」

 「わかった」

 「あ、そうだ。明日はどんな予定?」

 「いや、別になにも」

 「じゃあ、サヴォア邸に行きましょう」

 「サヴォア邸……」

 「うん。コルビュジエの最高傑作よ」

 

 つづく

 

 

 


 

〈 第34話の予告 〉

建築大学の学生・メルの案内で、ヴィダルは“サヴォア邸”へ。

そこは、あたらしいヘアスタイルに向かう“道”の入口でした。

 


 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

 

  ライフマガジンの記事をもっと見る >>