美容師小説

美容師小説

-第34話-­【1953年 パリ】 森のなかに浮かぶ家

 夕方まで、『ルーブル』の中で過ごした。展示作品はどれもがヴィダルを魅了したが、その日はとくに女性の肖像画や彫刻を丹念に観て回った。

 もうヘアスタイルから逃げることはなかった。堂々と、ひとりの美容師としてヘアスタイルを観た。

 

 約束の5時が待ち遠しかった。ヴィダルのなかにはメルがいる。

 白いシャツ。ブルーデニムの細身のパンツ。

 [そうだ、あのデニムが、「少年」と間違えた原因のひとつだった]

 

 顔は……はっきりとは思い出せなかった。白く、なめらかな肌。細く、とがった鼻梁。ちいさな顎。そして、眼鏡。

 ヘアスタイルはショートだ。ストレートヘアのベリーショート。黒髪だった。

 [あのヘアスタイルも「少年」に間違えた原因だった]

 [しかしどうしてあんなに短く切ったのだろう]

 もう作品は観ていなかった。気がつくと、同じ作品の前にいつまでも立っていた。頭のなかにはメルがいる。じっとこっちを見上げている。

 [そうだ、メルは小柄な女性だった]

 身長はヴィダルの肩にも届かなかった。

 

 

 4時を過ぎるころには、もうエントランスに向かっていた。まだ約束の時間まで1時間近くある。しかし、待てなかった。

 近くに書店を探して、コルビュジエに関する本を見てみようか。そう思った。それよりいっそメルと一緒に大学に行って、図書館に紛れ込めばよかった。建築大学の図書館ならコルビュジエの本なんかいくらでもあるはずだ。

 思いは千々に乱れた。

 

 

 メルがやってきた。寒そうにコートの前をかき合わせながら歩いてくる。笑顔だった。白い歯が、きれいに並んでいる。

 「お待たせしました」

 ていねいにメルが言った。

 「どういたしまして」

 ヴィダルもていねいに答えた。

 「で、午後の授業ではなにを勉強したのかな」

 ヴィダルは聞いてみた。

 「今日もバウハウス」

 メルは素っ気なく答える。

 「バウハウスって、あのドイツの学校のこと?」

 「そう」

 「大学で、他の学校のことを学ぶんだね」

 「だって建築にとっては絶対に外せない学校だから」

 そう言いながら、メルは歩きはじめる。ヴィダルは隣を歩く。ルーブルを背にしてセーヌ川沿いを東へ。間もなく『ポンヌフ』。セーヌ川の中洲・シテ島を介して対岸に渡る橋だ。

 「さて、このままポンヌフの上でセーヌ川を見ながら話をつづける? それともカフェオーレをおごってくれる?」

 メルが笑いながら言った。

 「カフェオーレをおごりたいね。これからメル教授の講義が始まるんだ。その授業料だよ」

 「オッケー。じゃあカルチェラタンのカフェに行きましょう」

 

 取っ手のない、丸いボウルのようなカップに、なみなみと注がれたカフェオーレ。そのボウルを両手で包み込むようにしながら、メルは少しずつ飲んだ。ちいさな口だった。

 「それで、コルビュジエなんだけど」

 「そうね。そうだったわね。さて、どこから話せばいいかしら」

 そう言いながらメルは、スケッチブックを取り出した。あの、方眼紙のスケッチブックだ。

 そこに3つの言葉を並べた。

 『Art Nouveau』<アール・ヌーヴォー>

 『Art Déco』<アール・デコ>

 『Modernism』<モダニズム>

 

 「この3つの違いはわかるかしら」

 「いや、ざんねんながらわからない。どれも聞いたことはある。だけどその違いとなると全然」

 ヴィダルはもう自分を飾らなかった。知らないものは知らない。それでいいじゃないか。メルの前では嘘はつかない。

 「オッケー。わかった」

 そう言ってメルは、次のような説明をしてくれた。

 


 

 『Art Nouveau』<アール・ヌーヴォー>

 これは「あたらしい芸術」という意味のフランス語で、19世紀末から20世紀初頭に興った国際的な芸術運動のこと。特徴は有機的な曲線の組み合わせによる装飾性にある。曲線のモチーフとなるのは、植物など自然界にあるもの。

 建築の世界で最も有名なアール・ヌーヴォー作品は、バルセロナの『サグラダ・ファミリア』。これはアントニ・ガウディの設計で、1882年に着工。完成まで200年かかると言われていて、現在も建設中。

 アール・ヌーヴォーは第一次世界大戦を境に急速に衰退。過剰な装飾だと批判されるようになり、芸術の中心はアール・デコへと移行した。

 

 

 『Art Déco』<アール・デコ>

 1925年にパリで開催された『現代装飾・工業美術国際博覧会』。その略称が『アール・デコ博』だった。曲線を多用したアール・ヌーヴォーの装飾に代わり、幾何学的な直線やパターン化された模様を使用する装飾へと変化を遂げた。

 建築物としてはニューヨークにある77階建ての『クライスラービル』。102階建ての『エンパイアステートビル』など。

 

 

 『Modernism』<モダニズム>

 アール・デコと並行するように、第一次世界大戦後の1920年代に興った前衛的な芸術運動。建築の世界では、古代ギリシャ・ローマからルネッサンスを経て、19世紀までつづいてきた“様式建築”を乗り越えようとした運動。その中心にあったのが1919年に開校したドイツの『バウハウス』。建築だけでなく、工芸・写真・デザインなど総合芸術を学べる学校だった。

 モダニズム建築を主導したのは3大巨匠と呼ばれる建築家たち。アメリカの『フランク・ロイド・ライト』。フランスの『ル・コルビュジエ』。そしてドイツ出身の『ミース・ファン・デル・ローエ』だった。

 


 

 

 カフェオーレはすっかり冷めていた。

 “講義”をいったん終えたメルは、そっとボウルに口をつけた。

 

 コルビュジエの名前は出てきた。だが、その情報は「モダニズム建築の3大巨匠のひとり」ということに過ぎない。もちろん、“講義”はまだつづくだろう。コルビュジエの話もきっと出てくる。ヴィダルは待った。待ちながら、いまの話を振り返っていた。

 

 [アール・ヌーヴォーからアール・デコ。これは曲線を中心とした過剰な装飾から、幾何学をモチーフとした模様への進化だという。これはまさしく、ヘアスタイルの現状と重なるのではないか。過剰な装飾。つまり女性の髪を上げ、まとめ、巻いてはねじり、スプレーを噴射して固めること。それをアール・ヌーヴォーに重ねるとするなら、アール・デコにあたるヘアスタイルはなんだろう。モチーフは幾何学図形。それは黄金比を学んだときに出てきた。直角三角形、正五角形……]

 

 「眠いの?」

 メルが呼びかけている。

 目を閉じて考え込んでいたヴィダルは、我にかえった。

 「あ、いや、そうじゃない。いまの話をヘアスタイルに当てはめていたんだ」

 「ヘアスタイルに?」

 「うん。たとえばアール・ヌーヴォー。これは過剰な装飾だと批判されたんだろう?」

 「そうね。でもそれ以前のデザインとは一線を画した前衛だった。花や草木、昆虫や動物など自然界にあるものをモチーフとして美を追求したのよ」

 「ベースとなったのは、曲線だよね」

 「そうね。ガウディの建築なんか、まさしく曲線だらけ。ぬめぬめとした有機物みたいな、圧倒的な存在感を持つ作品だわ」

 「それがね、今までの女性のヘアスタイルと同じなんだ。髪の毛を上げて、巻いて、ねじって、ピンでまとめる」

 「最悪ね。サロンでセットしたら、そのまま触っちゃダメってヤツでしょう」

 「洗えないしね」

 「それが女性を家庭に縛り付けてきた元凶なのよ。男は女を髪型で縛り、服でも縛る」

 「服でも?」

 「そうよ。貴婦人たちはコルセットでお腹を締め付けてるでしょう。それはどういう意味かわかる?」

 「いや。でもウエストを細く見せる、というかバストとヒップを強調するために、くびれをつくっている、とか?」

 「そこにどんな意味が隠れているか、知ってる?」

 「そのほうがきれいに見える」

 「だれから見て」

 「だれって……」

 「男でしょう。殿方」

 「まあ、そうなるね」

 「つまり男のための女の服。男のための女の髪型」

 「あぁ、そうか」

 「しかもよ、お腹を締め付けることにも理由がある。それは宣言してるの」

 「宣言?」

 「私は妊娠していません」

 「えっ」

 「妊娠してません。ですからこれからあなたの子どもを妊娠できますよ、と」

 「まさか」

 「その、まさかよ」

 

 驚いた。コルセットにはそんな意味があったのか。

 「その尖兵が今をときめくクリスチャン・ディオール。そして、その真逆にいたのが、ココ・シャネル」

 「シャネルが真逆?」

 「そう。シャネルはコルセットなんか使わなかった。コレクションのデビューは1919年。つまり第一次世界大戦が終わった後。そこから黄金の20年代が始まったの」

 「黄金の…」

 「狂騒の20年代とも言うわ。狂乱の、とも」

 「ほう」

 「第一次世界大戦は、たくさんの若い男性を犠牲にしたでしょう。だから必然的に女性の社会進出を促した。それまで女性は結婚して家庭に入るしかなかった。職業を持ってキャリアを積んだのはごく一部。だけど戦争がそれを変えたの。女性は解放され、社会に進出した。それを支えたのがシャネルの服だった」

 「解放された女性たちは職業をもった、と?」

 「職業をもって自立すると、夜の街にも繰り出した。狂騒の20年代。その発信地は禁酒法時代のアメリカ。女性たちは裏通りの非合法酒場に繰り出した。一方、ヨーロッパではパリがその中心地となったの。フラッパーって知ってる?」

 「いや」

 「若い、未成熟な女って意味」

 「あ、そうか。flapって、まだ髪をアップにすることができない子どもの髪が、背中でひらひらするという意味だ」

 「フラッパーの特徴は、ボブカットのショートヘア。膝まで見える短いスカート。真っ赤な口紅。ジャズミュージック。ダンス。強いお酒。タバコ。そして解放的なセックス」

 「ふむ」

 「アメリカの女優ならルイーズ・ブルックス。パリを代表するのはキキ。モンパルナスのキキと呼ばれたアリス・プラン」

 「キキなら知っているよ。マン・レイの恋人だろ?」

 「画家のフジタ、ジャン・コクトー、モイズ・キスリング……。いろんな芸術家のモデルにもなっている」

 「つまりフラッパーが、20年代の空気を代表していた、と」

 「自由。解放。享楽。伝統や旧い様式の破壊。戦争の恐怖の記憶から、人々はみんな逃げだそうとした」

 「ちょっと待って。それって今の、この時代と似ていないか?」

 「うん。そっくり」

 「第二次世界大戦でたくさんの男性が犠牲になって、女性が社会に進出している。君だってそのひとりだ」

 「そうね。昔は女が海外留学なんて許されなかった」

 「そのショートヘアだって、許されなかった」

 「でもフラッパーたちは断髪したわ。それが解放のシンボルだった」

 「君の髪も解放のシンボル?」

 「あ、これ? そうね。でも正確に言えばめんどくさいのよ」

 「だれに切ってもらってるの?」

 「自分で切ってる」

 「自分で?」

 「そうよ。美容院に行ったらどんな髪型にされるかわからないから」

 「えーっ。そんなこと言わないでくれよ」

 「あら、じゃあ、あなたならどんなヘアにしてくれるの?」

 「うーん、そこまで短いとやりようがないかなぁ」

 「いいの、ヘアスタイルは、どうでも」

 「どうでもよくはないさ」

 「じゃあなんとかしてよ」

 

 ヴィダルは困った。なんとかしてあげたい。だけどパリにはハサミを持ってきていない。ハサミは、『デュマス』の天井に刺さったままだ。

 「ざんねんだけどハサミがないんだ」

 「いいわよ。髪なんかどうでも。そうだ。それよりあなたはコルビュジエの話を聞きたかったのよね」

 「あ、そうだ。コルビュジエだ」

 救われた。

 [でもパリのどこかでハサミを買って、なんとかしてあげよう]

 

 「コルビュジエは、そうね。明日にしない?」

 「いいよ。明日はなんとか邸って家に行くんだよね」

 「サヴォア邸。それを見れば説明はいらないかも」

 「へぇ。そんなにすごい家なの?」

 「すごいわよ」

 「門外漢でもすごさがわかるかなぁ」

 「わかるわ。ひと目で」

 「じゃあ楽しみだ」

 「ところであなた、どこに泊まってるの?」

 「学生街の安ホテル」

 「じゃあ、そこを引き払ってウチに来る?」

 「それはありがたい」

 「じゃあ決まり。行きましょ」

 

 

 翌朝。ヴィダルはメルのベッドで目を覚ました。シャワーを浴び、メルと一緒にパンをかじってからアパートを出る。

 メルは、言葉を発しなかった。ベッドのなかで目が合ったときに「おはよう」とあいさつを交わしただけだ。無言でずんずんと先を歩く。駅に向かって歩く。

 地下鉄を降りたのは『Poissy』という駅だった。改札を出ると、メルはようやく口を開いた。

 「バスに乗る? それとも歩く?」

 「どちらでも。君はいつもどうやって行くの?」

 「歩いてる」

 「じゃあ歩こう。だけど無言はイヤだよ」

 「あ。ごめんなさい。なんかね。でももうだいじょうぶ」

 そう言ってメルは笑おうとした。が、失敗した。

 

 深い森のなかを20分ほど歩いた。やがて木立の間から、白い建物が見えてくる。広い芝生の敷地。周囲は林。メルはその真ん中に佇む白い建物に向かって進む。

 「ここは別荘なの。サヴォア夫妻は週末をここで過ごす。だから今日はいない」

 聞こえていなかった。ヴィダルは、全貌を現しはじめた建物の姿に圧倒されていた。

 「浮いている」

 思わず言葉がこぼれた。ヴィダルの足は止まった。先を歩くメルが振り返る。白い歯が見えた。メルの笑顔だった。

 「ピロティって言うの。コンクリートの柱で、1階に空間をつくる。コルビュジエは大地の束縛から、家を解放したの」

 そう言って、メルはどんどん進む。ヴィダルの足は止まったままだ。言葉も出ない。空中の家が、こちらに向かってせり出してくるようだ。

 

 メルは柱の間を抜けて建物の入口にたどりついた。扉が開いた。中から初老の男性が現れる。

 メルがなにか話している。ヴィダルには聞こえない。メルが手を振って呼んでいる。

 ようやく、ヴィダルは一歩を踏み出した。それは、あたらしい未来へと向かう重要な一歩となった。

 

つづく

 

 

 


 

<第35話の予告>

“サヴォア邸”は、さまざまな示唆をヴィダルに与えます。しかし、あたらしいヘアスタイルに向かう決定的な一打となったのは、メルが教えてくれた建築家『ミース・ファン・デル・ローエ』の言葉でした。

 


 

 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

 

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