美容師小説

美容師小説

-第35話-【1953年 パリ】 ヘアスタイルのモダニズム

 メルは初老の男と話していた。フランス語だ。何を話しているのか、ヴィダルにはわからない。メルは何度かヴィダルを指差し、男に説明している。やがて男とメルは笑顔になり、男が建物のなかに入った。

 

 「開けてもらえるわよ」

 メルが言った。

 「あの人がサヴォアさん?」

 「いいえ、あの人はサヴォア家の使用人兼管理人なの。私は何度も来ているからいつでも入れてもらえるけど、あなたは初めてだから」

 「なんて言ったの」

 「ロンドンの建築家が、コルビュジエの建物を見て回ってる」

 「なるほど」

 「建築大学の学生にはいつでも見せてくれるの。コルビュジエとサヴォア氏が連名で“いつでも見せる”と宣言してくれている」

 男が戻ってきた。鍵を受け取ったメルは笑顔で言った。

 「メルシー」<ありがとう>

 そのフランス語だけは、ヴィダルにも理解できた。

 

 メルが鍵を開けた。目に入ってくるのは、2階へ向かうスロープ。その左手にはらせん階段。この家には1階がない。1階は車寄せと使用人の居住空間なのだ。

 

 メルはスロープを上る。ヴィダルもついていく。周囲が急速に明るくなっていく。2階のフロアに到着する前から、ヴィダルは声を出していた。

 「ワォ!」

 光の空間だった。広大なリビングルームに陽差しが満ちている。

 [こんなに開放的な空間があるのか]

 ヴィダルは感動していた。

 リビングの壁には横長の窓がつづく。全体が透明なガラスという壁もある。そのガラスの向こうに中庭が拡がっていた。

 [中庭……?]

 ヴィダルは気づいた。ここは2階だ。だからあれは中庭ではなく、テラスか。

 

 「中庭に出てみる?」

 メルが言った。

 「やっぱり中庭というんだ」

 ヴィダルが答えた。

 「コルビュジエのテーマのひとつ。それは“屋上庭園”。この大きなガラスでリビングと中庭を一体化しているの」

 メルはハンドルを回してガラス扉を開けていく。さわやかな風がリビングに吹き込んできた。

 

 中庭に出る。周囲は三方、壁に囲まれている。だが、閉塞感はまるでない。壁の端から端まで、横長の窓が開いているからだ。

 「こんなに窓が多くて、建物を支えられるの?」

 ヴィダルは素朴な疑問を口にした。

 「あら、鋭いじゃない。そうなのよ。ふつう家は柱と梁、そして壁で支える。だから横長の窓はなかなかつくれない。特にヨーロッパの建物は石造りだから、石壁に横長の穴を空けちゃうと支えられない。だから窓は縦長で小さいの。だけどコルビュジエはもっと開放感に満ちた家をつくりたかった。そこで考えたのが“自由な立面”。壁を重力から解放したの。ほら、リビングの柱を見て。全部、壁の少し内側にあるでしょう。コンクリートの柱を壁の内側にずらすことで、壁の自由度をつくり出す。重力は柱で支えられた梁と床が引き受けるから壁にはかからない。横長の窓だって自由にあけられる。壁の端から端までつながる横長の窓。これは“水平連続窓”というの」

 

 ピロティ。屋上庭園。自由な立面。水平連続窓。

 いくつものテーマが出てきた。サヴォア邸は、まず外観で人を圧倒する。たくさんの柱で、建物を浮かしているからだ。

 一方、柱で家全体を支えることで、内部もまた徹底的に開放している。

 「すべてはあたらしい技術のおかげなの。まずはこの柱。鉄筋コンクリートという新素材が、このユニークな構造を可能にしている。さらにガラス。これだけ大きな一枚ガラスを量産できるようになったのも、近代になってからの話なのよ」

 「なるほど」

 「旧来の石造り、煉瓦造りが持っていたさまざまな制約を、あたらしい素材が壊したの。だから建築はより自由になった」

 

 中庭の端に、もうひとつのスロープがあった。屋上につながるスロープだ。途中まで上ると、またもヴィダルは歓声をあげた。

 「すごい。ここから見ると、中庭はまさしく“屋上庭園”だ」

 三方の壁より上の位置から見下ろすと、中庭は青空へと向かって開放されていることがよくわかった。さらに透明なガラスで区切られたリビングもまた、庭の一部に見えた。

 

 スロープを上りきると、そこにも植栽があった。その先にはこの家をぐるりと取り囲む林が見える。

 「ふー」

 ヴィダルはため息をついた。

 「すごい。すごいものを見せてもらった」

 「そう?」

 「自由なんだね。建築って、思ったより自由なんだ。こんなに自由に表現できるんだ」

 「うん。でも制約もたくさんあるわよ。構造計算。強度計算。人の導線。素材の選択。そして最大の制約が納期と予算」

 「そうか、予算か。お金がなければ実現できないことがある」

 「でも、そこも建築家の腕の見せ所なのだけれど」

 「予算のなかで、できることをやるってこと?」

 「まぁ、そうね。でも巨匠たちはたびたび予算をオーバーする(笑)」

 「えっ、ホント?」

 「ま、しょうがないわよね。巨匠だもの。予算を大幅にオーバーしても、施主は納得したりする。だから学生たちが憧れて、学びつづける“作品”をつくることができる。そして“作品”は、時代を超えて残っていく」

 「そこだよな、建築のすばらしさは。“作品”が残っていく。歴史の一部となっていく。でもヘアスタイルはそうじゃない。つくった“作品”は、その直後から変化していく」

 「どういう意味?」

 「だって髪は伸びる。いつも伸びている。伸びつづける」

 「なるほど」

 「コンテストで優勝した作品も、その翌日には微妙にラインが変わっているんだ」

 「それは髪の宿命ね。素材そのものが生きてるから変化しつづける」

 「だろう。だから時々、むなしくなるんだ」

 話しながら、ヴィダルは不思議な感覚に気づいた。既視感だった。

 [同じような話を、どこかでだれかとしたような気がする]

 

 「写真に撮ればいいじゃない」

 メルが言った。

 「その瞬間を、写真に撮ればいい。あなたの“作品”の、最高の瞬間を」

 ヴィダルはじっとメルを見つめた。いま、メルはとっても大事なことを言っている。そんな感覚があった。だが、なにが大事なことなのだろう……。

 「写真か。たしかにそれもひとつの方法だね。だけど、それが“作品”なのだろうか。それで女性たちは満足だろうか」

 「ステキな写真だったら、私もこうなりたいと思うわよ」

 「うん。そうかもしれない。だけど、その“作品”は一瞬のものだ。日々、変わっていく。しかもそれはそのモデルだけのもの。別の女性にはあてはまらないんだ」

 「あら、つまりひとつの“作品”は、ひとりのモデルさんのための“作品”だというわけ?」

 「だってそうだろう。その人に似合うヘアスタイル。その人が生きるヘアスタイル。それが“作品”として評価されるんだ。帽子のように、独立した作品として評価されるわけじゃない。しかも帽子のように、取り替えられない」

 

 話しながら、ヴィダルは少しずつ思い出してきた。

 [シルヴィオだ。あのコンテストへの道を開いてくれたシルヴィオ。彼が言ったんだ。骨格という、人それぞれまったく違う土台のうえにヘアスタイルを成り立たせる。髪の生え方も、流れ方も、髪質も、まったく異なる人の髪をデザインする。それこそ美容師の醍醐味だ、と]

 

 言葉が、自然に滑り出てきた。

 「その人が生きるヘアスタイル。その人のためのヘアスタイル。つまりヘアのオートクチュール。それをつくり出すことができれば」

 「すごいことね。だけど今までの美容師もみんなそこをめざしていたのではないの?」

 「たしかに。でもなにかが違うんだ。それがなにかがわからない」

 「なんだろう。私にもわからない。でもあなたの話のなかに興味深いところがあったわ」

 「どこ?」

 「作品は一瞬のもので、日々変わっていく」

 「そうだよ。だからむなしいじゃないか。建物は変わらないだろう」

 「でもね、素材の変化を前提としたデザインって、あるはずよ」

 「変化を前提? つまり髪が伸びることを前提としたデザインということ?」

 「うん。だってそれが髪という素材の宿命じゃない。だったらそこから逃れることはできない」

 「それはわかる。だからこそみんな固めるのさ。1週間、変わらないようにスプレーで固める」

 「建築だって、石や煉瓦を使うのは固めるってことよ。変化させないってこと。だけど、その概念を突き破ったのがコルビュジエよ。鉄筋コンクリートとガラスというあたらしい素材を使って、石壁を追放したの」

 「それはわかるんだ。今日、ここでよくわかった。だけどそれをどうヘアスタイルに生かすんだ。いったいどんな新素材があるというんだ。結局は髪だろう。人の髪。伸びる髪」

 「だからモダニズムよ。あなた言ったじゃない。今までのヘアスタイルはアール・ヌーボーだった、って。過剰な装飾だと批判されたんだろう?って」

 「そうだよ」

 「モダニズム建築はね、別名“白い箱”と呼ばれているの。1920年代には世界中の建築家が“白い箱”を競い合っているの。装飾をできるだけ排して、機能を重視する」

 「白い箱。たしかに。これは白い箱だ」

 「でも、浮いてるのよ。屋上に庭園があるのよ。壁一面がガラスなのよ。水平に連続窓があるのよ。つまり、装飾ではなく、自由でユニークな発想を武器として“白い箱”のあたらしい魅力に挑んでいる」

 「わかる。わかるんだ。だけど、それをヘアスタイルでどう表現するんだ」

 「できないの? 装飾より機能。アール・ヌーボーじゃなくてモダニズム。白い箱、だけどあたらしい魅力に満ちた芸術的な“白い箱”」

 「ヘアスタイルに、果たして機能があるのだろうか。家にはある。家には住めるから。居住という機能がある。雨、風を防ぐという機能もある。快適に暮らすという機能だってある。住む人の個性を表現するという機能も。だけどヘアには……」

 「あるじゃない。快適に暮らすためのヘア。主張するヘア。個性を語るヘア」

 「言葉ではいくらでも言えるさ。だけど髪は伸びるんだ。変化してしまうんだ。固めずに、その変化を止めることはできない」

 「頼むから考えてよ。見つけてよ。変化することを前提としたヘアデザイン。機能的で美しいヘアスタイル。だからこそ日々、快適に過ごせるヘア。それが私たち女の人生を変えるのよ」

 「女の人生を、変える……?」

 「あなた言ったじゃない。いまは狂騒の20年代とそっくりだって」

 「たしかに言った」

 「だったら女を解放してよ。ヘアスタイルで」

 「女を解放……」

 「フラッパーよ」

 「フラッパー……」

 「もう、じれったいわね。切るのよ。髪を切るの。断髪。ショートボブ」

 「えっ?」

 「切ってよ。女たちの髪を」

 「切るって言っても……」

 「私たちはもう固めたヘアには戻らない。母親たちの世代のように、男に縛られたくないの」

 「モンパルナスのキキのように?」

 「自由に生きる。だけどキキのヘアスタイルはもう古いわ。それをもっとモダンにするのよ」

 「モダンなキキ」

 「モダンなフラッパーよ」

 

 考えた。イメージした。キキではなく、メルのヘアスタイル。この短い髪を、どうデザインすればいいか。モダンなメル。機能と美。あたらしい魅力。

 「ハサミを買いにいこう」

 ヴィダルは言った。

 「どんなハサミ?」

 メルの瞳がきらきらしている。

 「美容師が使うハサミ。文房具じゃなくて、プロが使うハサミ」

 「さて、どこに売ってるかしら」

 「ハサミのメーカーか、商社がないかな」

 「フランス製でもかまわない?」

 「どこだって一緒だろう」

 「じゃあさっきの管理人さんに聞いてみる」

 メルは足早にスロープを降り、らせん階段を踊るように1階まで降りた。

 

 ヴィダルが追いつくと、すでにメルは管理人と話していた。さらに一言、言葉を交わすと管理人は家のなかに消えた。

 「いま、電話で聞いてくれるって」

 メルは、さらにきらきらした目でヴィダルを見上げる。

 「メル。悪いけど君のヘアスタイルがイメージできたわけではないんだ」

 ヴィダルは申し訳なさそうに言って、こう付け加えた。

 「だけどハサミを持てば変わる。イメージが自然に湧いてくる。そんなときがあるんだ」

 「へぇ、それは楽しみ」

 管理人がメモを手に戻ってきた。

 「パリに、ハサミメーカーの販売拠点があるらしいわ」

 「じゃあ、パリに戻ろう」

 管理人にお礼を言って鍵を返し、2人は『Poissy』駅に向かった。

 

 森のなかを歩きながら、ヴィダルは聞いた。

 「ねぇ、さっきのおじさん、建築家がどうしてハサミなんだって疑問に思わなかった?」

 「さぁ、どうかしら。でも教えてくれたんだもの。それでいいじゃない」

 「まぁね」

 「それより私、さっきから考えてるの。私のヘアスタイルのイメージ」

 「ほう。じゃあ絵に描いてみる?」

 「ううん、ヴィジュアルのイメージじゃない。言葉のイメージ」

 「コトバ……?」

 「モダニズム建築の巨匠が3人いるって話、したわよね」

 「うん。コルビュジエと、あと2人はだれだったっけ」

 「フランク・ロイド・ライトと、ミース・ファン・デル・ローエよ」

 「覚えるの、むずかしいな」

 「だいじょうぶ。なんども聞いていれば覚えるわ。でね、そのローエがね、こんな言葉で自分の建築を表現しているの」

 つづけて、メルはゆっくりとこう言ったのである。

 

 「Less is more」

 

 

つづく

 

 

 

 


 

<第36話の予告>

 

『Less is more』。この言葉を獲得したヴィダルは、あたらしいヘアスタイルに挑みはじめます。ロンドンに戻り、次の修業先として選んだのは『ハウス・オブ・レイモンド』。果たして、今度は採用してもらえるのでしょうか。

 


 

 


☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

 

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