美容師小説

美容師小説

-­第44話­-【1957年 ロンドン】ヴォイス・トレーニングがはじまった。

 敏腕ファッション・エディターがふたり、相次いでサロンにやってきた。

 『ヴォーグ』誌のクレア・レンドルシャム。そして『デイリー・ミラー』紙のフェリシティ・グリーン。

 ヴィダルはそれぞれの髪をカットした。よりシャープに。よりクールに。

 

 最初のオファーは、クレアからもたらされた。『ヴォーグ』のファッション撮影に参加してほしいという。モデルはジーン・シュリンプトン。フォトグラファーはデイヴィッド・デイリー。どちらもロンドンの、いや世界のファッション・シーンに突如として現れた新星だった。

 

 クレア・レンドルシャムの眼は、驚くほど正確に才能を見分けた。しかも、だれも気づいていない未知の才能を発見する。『バザー』を始めたばかりのマリー・クワントを世に出したのはクレアだった。ジーン・シュリンプトンはまだ17歳。しかしその後、1960年代に最も成功したトップモデルとして世界に君臨することになる。そして著名なフォトグラファーのアシスタントを経て、独立したばかりだったデイヴィット・ベイリー。それらのタレント(才能)たちを、クレアは『ヴォーグ』という雑誌の上で掛け合わせた。その渦中に、ヴィダルも放り込まれることになる。

 

 

 一方、フェリシティ・グリーンは、『デイリー・ミラー』紙上でのドキュメンタリー記事を企画した。1954年のサロンオープンから、マリー・クワントのショーまでの成長物語を記事にする、という。

 

 

 『ヴォーグ』が発行され、『デイリー・ミラー』の記事が世に出ると、サロンにはさらに多くの女性たちがやってきた。だが、狭くて入れない。女性たちはストリートにあふれた。

 

 

 ある雨降りの日。ヴィダルの親友がサロンにやってきた。ジョージア・ブラウン。本名=リリアン・クロット(第39話参照)。イーストエンド時代の幼なじみで、ミュージカル女優である。

 ウエストエンドの舞台で活躍していた彼女は、ヴィダルがサロンをオープンした直後、真っ先に顧客となる。同時に、アーティスト仲間を次々と紹介して、サロンを一躍、有名にしてくれた恩人であった。

 

 「ヴィッド、今夜はクラブでオープニングショーがあるの。最高のヘアスタイルで出席したいから、よろしくね」

 「オッケー」

 ヴィダルは早速カットを始める。するとリリアンはハサミの動きには目もくれず、語り始めた。

 「ヴィッド、聞いて。私、いま発声法を学んでいるの。これがすごいのよ。私たちってイーストエンド(※)じゃない? コックニー(※)ってなかなか抜けないわよね。それがね、みるみる抜けていくの」

 

 確かに、リリアンの声は美しかった。聞いていて心地よい。しかも発音も、アクセントも、完ぺきに聞こえる。まさにクイーンズ・イングリッシュ。

 当初、その変貌は彼女が女優であり、歌手であるからだと思っていた。毎日のように人前で歌い、しゃべるのだ。慣れるだろうし、練習も重ねるだろう。だから言葉が美しくなったのだ。そう思っていた。ところが、リリアンは言うのだ。これはヴォイス・トレーニングの成果なのだ、と。

 「アイリス・ウォーレン。私のヴォイス・トレーナー。ロンドンで一番だと評価されている先生よ。ヴィッド。あなたもぜひ、アイリスに会うべきよ。アイリスにレッスンしてもらうべきよ。絶対に。だってそれが私のキャリアをつくってくれたし、あなたのキャリアにもきっとプラスになる。母音を正確に発音できるようになるだけで、なぜか自信が湧いてくるの」

 リリアンは語りつづけた。

 

 ヴィダルは少々困っていた。サロンのなかで、ヴィダルはお客と会話をしない。カットの最中にお客が話しかけてきたら、こう言って制するのだ。

 「おしゃべりがしたいですか? それともいいヘアカットをしてほしいですか?」

 そうしてヴィダルはお客の口を閉ざし、カットに集中するのだ。

 

 ところがリリアンはおしゃべりを止める気配がない。ヴィダルも「アイリス・ウォーレンのレッスン」が気になり、さまざまなことをイメージする。自分の英語がさらに良くなること。発音が美しくなること。アクセントが洗練されること。人前で堂々と話ができる自分……。

 

 英語がコンプレックスだった。コックニー訛りのイーストエンド・ボーイが、ウエストエンドで仕事を見つけるのは困難だった。だから努力したのだ。BBCの放送を聞いて、たくさんの芝居や映画を観て、正しい英語を獲得したのだ。なんとかウエストエンドのサロンに就職し、仕事でも英語を磨いた。だけど……。

 [ヴォイス・トレーニングを勧めるということは、リリアンからみれば、ぼくの英語は未だ完ぺきじゃないということだ]

 考えながらカットをつづけていたヴィダルは、我に返った。

 [あっ]

 ちょっと切りすぎた。最初のイメージよりも短くなっている。だが、このヘアスタイルも悪くない。キュートだ。

 [ま、おてんば娘のイメージだな。リリアンの魅力はじゅうぶんに伝わる]

 そう思った瞬間だった。同じように我に返ったリリアンが、合わせ鏡をのぞき込んで叫んだ。

 「ちょっと、なにこれ。ヴィッド、なんでこんなに短くしたの? 私のキャリアを台無しにするつもり?」

 結局、リリアンは泣きながらエレベーターに駆け込んだ。

 

 

 [ま、いいか]

 ヴィダルは肩をすくめ、仕事に戻った。

 [リリアンはきっと気に入ってくれる。ちょっとびっくりしただけだ。それより……]

 ヴィダルは「アイリス・ウォーレン」のことが頭から離れなかった。

 [ヴォイス・トレーニング。そんなにいいものなのか]

 

 

 翌朝、サロンに電話がかかってきた。リリアンだ。

 「ダーリン、ごめんなさい。昨日はあんなに大騒ぎしちゃって。みんながこのヘアを褒めてくれたわ。だれもが気に入ってくれた」

 「だいじょうぶだよ。気にしないで。きっと戻ってきてくれると思ってた」

 「自信があったのね」

 「まぁ、そうだね」

 「で、考えてくれた? ヴォイス・トレーニングのこと」

 「あぁ、考えてる」

 「じゃあ私、あなたのことを先生に伝えるわ」

 

 

 ヴィダルがアイリス・ウォーレンのスタジオを訪ねたのは、翌週のことだった。アイリスは初対面のヴィダルにこう言った。

 「あなたのことは聞いています。ジョージア・ブラウンが推薦しました。でも私は美容師とは仕事をしません。私がトレーニングするのは俳優だけです」

 そう言いながらアイリスは、ヴィダルの頭のてっぺんからつま先までをしっかりと見る。まるで値踏みをするように。そしてこう言ったのである。

 「木曜日の午後2時。The Old Vicに来なさい」

 打診ではない。命令である。「来なさい」、である。

 『The Old Vic』。オールド・ヴィック・シアター。1818年設立という歴史を誇る、由緒ある劇場だ。

 ヴィダルは急いでサロンに戻ると、木曜午後の予約をすべて他のスタイリストに振り分けた。

 

 

 木曜日。ヴィダルは地下鉄のウォータールー駅で降り、長い階段を上って地表に出た。目の前の広い通りを右へと歩くと、正面に大きな建物が見えた。

 『The Old Vic』だ。

 裏手に回ると、レンガづくりの古い壁がつづく。その中央あたりに白木の扉があった。『STAGE DOOR』と書かれている。ここだ。楽屋の入口だ。

 ヴィダルは高揚していた。華麗な歴史を積み上げてきたシアターの、舞台裏に入るのだ。

 受付で用件を告げると、控え室に通された。そこにはスピーカーが設置されていて、劇場内の音が聞こえてくる。じつに美しく、なめらかな男声だ。ヴィダルはその声に聞き惚れながら、思った。

 [どこかで聞いたことがあるぞ]

 [間違いない。聞いたことがある。だけど……]

 だれの声なのか。結局、ヴィダルは思い出せなかった。

 

 やがて、スピーカーは静かになった。レッスンが終わったのだ。次はいよいよヴィダルの番だ。関係者がやってきて、ヴィダルをメインシアターへと案内する。

 

 ウォーレン先生は、ステージの上にいた。あいさつをすると、いきなりこう問いかけられる。

 「いまの声、聞いていた?」

 「はい。とってもきれいで、心地よい声でした」

 「だれの声?」

 「聞いたことがあるんです。だけど名前が出てきません」

 「出てこない、ですって!?」

 怒ったように彼女は言った。

 「ローレンス・オリヴィエ(※)よ!」

 

 ヴィダルは圧倒されていた。目の前には1000人を収容する客席。強いスポットライトを浴びるステージ。傲慢で、見下ろすかのようなウォーレン先生の態度。さらに加えてほんのさっきまで、ここにあのローレンス・オリヴィエが立っていたなんて……。

 「演壇に立ちなさい」

 また、命令だ。先生は一枚の紙をヴィダルに手渡すと、こう言った。

 「Enunciate !」

 <はっきり発音して!>

 

 紙には単語がランダムに、びっしりと書いてある。左上から順番に、ヴィダルは読み上げていく。できる限りはっきりと、口を大きく動かして。

 数分が経った。読み上げつづけるヴィダルに、ウォーレン先生は言った。

 「Stop !」

 そして、頭を振りながらこうつづけたのである。

 「It’s bloody awful !」

 <すさまじいほどひどいわね>

 「But I think I can do something with you」

 <でも、まあなんとかできると思うわ>

 

 それがヴォイス・トレーニングのスタートだった。ヴィダルはその日からじつに5年間も、ウォーレン先生のもとに通いつづけることになる。

 

 

 

 さて、サロンである。

 ヴィダルはいよいよ、移転計画を具体化しようとしていた。

 物件は見つけていた。同じニュー・ボンドストリートの171番地。今のサロンから歩いて2分ほどの、あたらしいビル。その1階と2階に、美容室があった。経営者は『ホセ・ポウ』という美容師。メイフェアで長年にわたって活躍し、名声を博していた。だが、彼はちょうど英国脱出を計画しているところだという。もっと緑豊かな、環境の良い場所へ移るというのだ。

 

 ヴィダルはその物件に惚れ込んだ。1階の天井は高く、中2階のフロアもある。さらに店内からそのまま階段で上がれる2階フロア。つまり合計3フロア。今のサロンの約3倍の広さが一挙に手に入るのだ。

 物件のリース料として1万ポンド。加えて内装。ホセのサロンを完全に一新し、まったくあたらしいイメージのサロンに造りかえる。その費用として2万ポンド。つまり投資金額は合計3万ポンド。ヴィダルは、ビジネスパートナーであるジョン(第41話参照)とともにそう見積もっていた。

 

 ところが、である。いよいよ契約というときになって、困ったことが起こった。

 ジョンが出資しているロイズ保険と契約していた豪華客船が、衝突事故を起こして沈没してしまったのである。

 ロイズ保険の引受業者は、“無限責任”を負う。事故がなければ掛けられた保険料は利益となる。ところがいったん事故が起こると、巨額の保険金を支払うことになるのだ。

 ジョンは多額の資金をロイズ保険に再投資することになり、財産のほとんどを失った。3万ポンドの投資は、不可能になった。

 

 報告に来たジョンは憔悴しきっていた。ヴィダルも茫然自失。しかし、ジョンはこう言うのである。

 「ヴィダル。だいじょうぶだ。ぼくがあたらしいパートナーを探して、紹介するから。サロンはきっとうまくいく」

 

 それからわずか3日後のことだった。ジョンが「食事をしよう」と誘った。

 「以前、一緒に仕事をしていた男を紹介するよ。サロンのプロジェクトには最適だと思うよ」

 

 

 チャールズ・プレボという男だった。ブルドッグのような、ずんぐりとした体格の男で、握手をすると跳び上がりそうになるほど強く握ってくる。

 ヴィダルは前菜を食し、スープを飲み終え、魚料理にナイフを入れる時になっても、まだ右手に痛みを感じていた。

 

 

 チャールズはニュージーランド出身のウール業者だった。ケタ違いの大金持ちで、“人生は楽しむためにある”というオーラを、隠すことなく発散していた。

 ヴィダルとチャールズは、すぐに意気投合。国際的なサロンビジネスの展開について大いに語り合った。そのとなりでジョンも、ふたりを楽しそうに見守っている。

 

 「一晩中、ヘアの話だけをつづけるのはご免だな」

 食後のブランデーを口にしながら、チャールズが言った。

 「きみのサロンにはたくさんの美人がやってくるんだろう?」

 「はい。英国で指折りの、すばらしいモデルや女優たちがお客としてやってきます」

 「ではこうしよう。ぼくがロンドンに来るたびに、パーティーを開いてくれないか。そこにステキなレイディたちを招待してくれるかい?」

 「もちろん。約束しますよ」

 チャールズは大笑いしながら、再びヴィダルの右手を求めてきた。ヴィダルは歯を食いしばって、その痛みに耐えた。

 それから話題はウールビジネスに移った。ニュージーランドからオーストラリアへ移住したチャールズが、いかにしてウールビジネスの帝国をつくりあげたか。

 「ミスター・サスーン。ビジネスに必要なものがふたつある。なんだかわかるかい?」

 「ヴィダルと呼んでください。さて、ふたつ、ですか。なんでしょう」

 「Guts and Luck」

 <ガッツと運だ>

 

 

 その夜はビジネスや投資に関してなにひとつ、具体的なことは決まらなかった。

 翌朝、ヴィダルは1本の電話を受けた。チャールズ・プレボの弁護士からの電話だった。用件は「ランチをご一緒したい」。

 

 レストランで、弁護士は開口一番こう言った。

 「ミスター・プレボが、ジョンのポジションを引き継ぎます」

 ヴィダルはほっとした。弁護士はさらに付け加える。

 「構想としては、会社が発展したら株式会社として法人化したい。それがミスター・プレボの提案です。その会社の株式を保有していれば、やがてふたりの娘たちに大金を残すことができるから、と」

 

 その話を聞いた瞬間、ヴィダルの頭のなかに灯りがともった。

 [法人化。株式。保有。]

 それらはとてもたいせつなキーワードのように思えたのだ。だがそのときはまだ、それらがどのような意味を持つことになるのか、はっきりとは見えていなかった。

 

つづく

 

 

 

※イーストエンド

ロンドン東部の下町。中世の“シティ・オブ・ロンドン”を囲んだ城壁の東側、曲流するテムズ川の北側をさす。主に労働者階級の貧困層が集まる場所として認識されていた。

 

※コックニー

コックニー訛り。ロンドンの下町・イーストエンドの労働者階級の言葉。『Mayfair』(メイフェア)を「マイフェア」と発音する。『name』(ネイム)は「ナイム」。『take』(テイク)は、「タイク」。『rain』(レイン)は「ライン」など。

 

※ローレンス・オリヴィエ

20世紀を代表する英国の名優。1948年に『ハムレット』でアカデミー主演男優賞。シェイクスピア俳優としても知られる。

 


 

 

<第45話の予告>

ニュー・ボンドストリート171番地にオープンしたサロンの近辺には、英国中から若い美容師が集まった。みなカメラを手に、サロンから出てくる女性たちのヘアスタイルを撮るのだ。一方、オープン直後に起こった事故を克服する過程で、ヴィダルはサロン経営のあたらしい方法に目覚める。そのキーワードは、“株式”と“教育”であった。

 

 


 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

『MARY QUANT』マリー・クワント著 野沢佳織訳 晶文社

『スウィンギング・シックスティーズ』ブルース・インターアクションズ刊

『ザ・ストリートスタイル』高村是州著 グラフィック社刊

 

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