美容師小説

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­-第46話-­【1954年 岐阜】学歴ではなく、“武器”を身に付ける。

 大学には行かない。大野芳男はそう決めていた。15歳のときに米軍キャンプで働き始め、定時制高校へと転校したときに決めた。

 家族は反対した。とくに2歳下の妹は泣きながら反対した。

 「私が高校に行かないで働くから、おにいちゃんは大学に行って」

 妹の願いを振り切って大野は転校し、米軍の『キャンプGIFU』で働き始めた。

 

 大学に行きたい。それは大野の夢だった。大学に行って建築を学ぶ。建築家になって、大野家の窮状を救う。同時に、戦争で焼け野原となった日本の復興に貢献する。その夢は、大野本人だけでなく家族全員の夢でもあった。しかし、大学に行っている時間はなかった。お金もなかった。

 

 大野家の窮状は、戦争がつくり出した。父・金太郎は京染めの職人で、京都で修業した後、東京・目黒で起業。『若松や江戸金』という屋号で活躍していた。ところが太平洋戦争末期、金太郎に召集令状が届く。徴兵検査の結果、本土決戦兵として登録され、軍需工場・川崎航空機に徴用されてしまうのだった。一家の大黒柱を奪われた大野家は貧乏のどん底へ叩き落とされた。

 

 父は勤めを終えて帰宅すると毎日、深夜まで蒸気釜と向き合った。戦前からのお得意様である呉服店の注文を受け、京染めの仕上げをする。つまりは内職であった。

 大野はその姿を見て、覚悟している。

 [オレが家族を守らずして、だれが守るのか]

 大野芳男、そのとき11歳。

 

 そして敗戦。占領軍が続々と上陸してくる姿を見て、大野はもうひとつの覚悟を決めている。

 [学歴には頼らない。頼る生き方はしない。人生は自らの手で切り拓いていかねばならない]

 そのための武器を、“英語”と定めた。

 

ハウスボーイの仕事に、大野は一所懸命取り組んだ(第17話参照)。掃除、洗濯、朝食づくり、靴磨きにアイロンかけ。どんな仕事にもいっさい手を抜かなかった。その姿勢はキャンプのなかで評判となり、担当将校からはつねに感謝されていた。

 しかし大野にとっては、一所懸命に仕事をすることは当然のことだった。なにしろキャンプでは英語を勉強できる。しかも好きなものが食べられたし、給料も破格だったのだ。

 1万6000円。それが大野の月給だった。大野芳男、当時16歳。ちなみに同じころ、川崎航空機に勤めていた父の月給は8500円である。

 

 大野はそのままハウスボーイとして働きつづけ、定時制高校を卒業。同時にタイプライターの検定を受けて合格した。

 資格は、武器になる。それが学歴の乏しい大野の信念だった。英語はほぼ完ぺきに会話ができる。次の武器はタイプだ。そう思ったのだ。

 そんな大野の姿を見て、将校が提案した。

 「ヨシオ、君はそこまで英語ができるし、タイプも打てる。仕事も真面目だ。将来のためにも、事務の仕事に替わったほうがいいんじゃないか」

 大野には答えられなかった。事務の仕事というもののイメージができなかったのだ。

 「オーケイ、ヨシオ。今夜、PXのキャプテンを呼んで頼んでみるよ」

 

 PX(Post Exchange)。基地内の売店の略称だ。『キャンプGIFU』では、売店だけでなく理髪店やレストランなども併設された商業施設の総称だった。

 

 話は簡単に済んだ。将校が大野を推薦すると、PXのキャプテンは快く受け入れてくれたのだ。

 こうして大野はPXで、あたらしい仕事に取り組むこととなる。それは経理だった。

 

 PXには売店がある。食料品や雑貨から高級陶磁器まで、たくさんの品物が売られている。また食堂に理髪店、美容室、写真スタジオもある。それぞれの店主やシェフは日本人で、契約で出店しているのだ。そのすべての売上、原価、給与計算、金銭出納……。経理には毎日、膨大な伝票が回ってくる。その処理に、大野は駆り出されることとなった。

 

 大野は事務所で最も若かった。周囲の日本人スタッフがみなそろばんを使うなか、ひとりだけ手動の計算機の使い方を教わり、マスターした。またアメリカ式の単式簿記を覚えて、帳簿をつくった。ハウスボーイとはまったく異なる仕事だったが、ここでも大野は真面目に、一所懸命に仕事をした。

 異なるといえば、住まいも変わった。キャンプ内の住み込みから解放され、岐阜の鶴田町にあった実家から通うこととなったのである。

 それからもうひとつ、変わったのが給料だった。ハウスボーイ時代の1万6000円も破格だったが、PXで経理を始めるとそれが4万円に跳ね上がったのである。当時、大卒の初任給が6000円(1952年)。そんな時代の4万円であった。

 

 

 大野は経理の仕事のかたわら、たびたび事務所の外へ呼び出された。PXのなかで兵士と日本人スタッフがもめたとき、大野が通訳として呼ばれるのである。

 大野はPXのなかで働くどの日本人よりも英語ができた。しかも大野は米兵と日本人の間に入り、それぞれの言葉を通訳しながら仲裁もしてしまうのであった。

 

 理髪店には、いつも米兵がお客として並んでいた。その合間を縫って、店主は大野の髪を切ってくれた。しかもタダで。

 「いやあ、こないださぁ」

 店主は大野の頭を刈りながら、いつも日本語で話をした。そうすれば周囲の米兵にはわからない。

 「アメリカさんがこうしてくれ、ああしてくれってうるさいもんだから断ってやったんだよ」

 店主は40代の男性。戦場で実際に米軍と戦っていて、大野よりも深く、強烈に“鬼畜米英”が染み込んでいる。

 「そんな髪型、おまえの頭じゃできない、って。どうしてもというのなら頭を替えておいでって、言ってやったのさ」

 戦争に負けた憂さ晴らしだった。彼にとっては今でもアメリカは敵国。それでも理髪店には行列がつづいていた。なぜなら『キャンプGIFU』には1軒しか理髪店がない。だから兵士はここに来るしかないのだ。

 店主は大野がやってくると、順番を無視して大野を優先してくれた。日本語で、思う存分話せる機会に店主は飢えているのだった。

 

 ハンバーグという食べ物を知ったのもPXだった。食堂のシェフは日本人。戦前はどこかのホテルでシェフをやっていた男性だった。そのシェフがハンバーグをつくってくれた。一口食べたとき、大野は泣きそうになった。

 [世の中にこんなにうまいものがあるのか]

 以来、大野は毎日のようにハンバーグを食べた。

 [あぁ、ウチの家族にも食べさせてあげたい]

 

 

 ところが、大野のPX時代は長くはつづかなかった。米軍が『キャンプGIFU』から撤収を始めたのだ。

 日本の独立を回復する“サンフランシスコ平和条約”に、吉田茂首相が署名したのは1951年9月8日。発効は翌1952年4月28日。この日をもって、約7年間に及んだ連合国による占領時代が終了。日本は主権を回復した。

 並行して、米軍基地の撤収が始まり、自衛隊の前身である保安隊が各地の基地を継承していった。

 

 大野は忙しかった。PXに出店するテナントの撤収支援と閉店保障。PXそのものの閉鎖準備と各種決算。その忙しさは、しかし同時に大野自身の“失業”への道でもあった。キャンプが閉鎖されれば、大野もまた職を失うのである。

 

 『キャンプGIFU』の完全撤収は、1953年秋に完了した。入れ替わりに入ってきたのが航空自衛隊(当時は保安隊)である。PXの職員はすべて解雇され、大野は失業した。

 

 

 職業安定所には失業者が殺到していた。1950年に始まった朝鮮戦争は特需となり、戦後の日本を大いに活気づけ、復興経済を潤した。が、それは朝鮮半島の人々の大きな犠牲のうえに成り立っていた特需だった。しかも1953年7月に停戦が成立すると、特需はあっけなく終わった。

 大野は職業安定所で失業保険をもらいながら、就職活動に取り組んだ。同時に自動車学校に通い、大型オート三輪の免許を取得した。“資格”である。資格はきっと“武器”になる。

 

 大野の武器はまず英語。次にタイプライター。手動計算機。米国式簿記。そして大型オート三輪の免許である。

 しかし就職先はなかなか見つからず、父親が勤める川崎航空機へアプローチすることとなった。父は、息子のために奔走し、ついに川崎航空機への就職が決定。大野は“通訳補佐”という仕事にありつく。1954年春のことだった。

 

 

 大野が配属されたのは資材部。川崎航空機には、資材部だけで通訳が50人もいた。

 川崎航空機は米国のロッキード社と提携。“T-33”という練習機を製造していた。当初は“ノックダウン方式”。米国カリフォルニア州のロッキード本社でつくった部品を川崎汽船が輸送し、日本で組み立てる。部品といっても大きい。T-33は2人乗りのジェット練習機。全長は11.5m。全幅11.2m。その機体が胴体と翼、そしてエンジンの3つに分けて送られてくるのだ。その大きな“部品”を、名古屋港に受け取りにいく。それも資材部の仕事。さらに組み立てるために必要となる治具の独自開発。さらには将来、自社生産するための交渉。それらすべての仕事に通訳が必要だった。

 

 入社すると大野は、ロッキード社から派遣されていた課長・ペニントンと、日本側の課長との間に机を構え、お互いの意思疎通を手伝った。

 通常の仕事は、マニュアルの翻訳や簡単な会話の通訳である。翻訳ではタイプライターが活躍した。専任のタイピストが2人いたが、大野もタイプした。

 資材部にはひとつだけ、やっかいな仕事があった。それは日米両国の技術者たちによる国産化会議であった。

 

 米側、つまりロッキード社のアメリカ人技術者はあきらかに日本の技術者を見下していた。

 「日米の飛行機生産技術は10年の開きがある」

 アメリカ人技術者はそう公言していた。

 しかし、日本の技術者にもプライドがある。川崎航空機は、大正時代にはすでに複葉偵察機“乙式一型”を完成させていた。また戦時下では戦闘機“飛燕”を開発。最大速度610km/h、高度1万mで編隊飛行ができる戦闘機として世界にその名を馳せていたのだ。

 

 だから会議は必ず紛糾した。英語と日本語の激しい応酬を、通訳がさばく。大野は奮闘した。会議が白熱してくると、米側の罵倒が始まる。日本の技術者をバカにして、口汚くののしる。大野には、その罵倒用語がすべてわかった。それは米軍キャンプで働いていた大野ならではの特技であった。だが、それをそのまま日本語にすることはできない。日本人技術者は屈辱に耐えきれず、会議がいっぺんに飛んでしまう。だからなるべくやわらかい表現にする。一方、日本側の説明がロジカルではないときがある。精神論や観念論。それをどう米側に伝えるか。そこにもたいへんな苦労があった。

 大野はつねにその狭間に立ち、通訳をしながら両者の仲裁を図るのであった。

 

 

 だが、どんなに激しくいがみ合っていたとしても、時間というものがわだかまりを溶かしていく。少しずつ、ほんとうに少しずつだが日米の深い溝が埋まっていくのだ。その後押しをしたのが、日本人のテストパイロットの力量だった。

 組み立て生産が始まって2機目となる“T-33”に、米側テストパイロットと同乗した坂井三郎は、2回目の飛行で主操縦桿を握ると米側を驚かせた。反転飛行、急降下、きりもみ。同乗したロッキードのパイロットは坂井を絶賛し、地上で見ていたロッキード社の面々も大いに驚いたのである。

 坂井三郎。ゼロ戦を駆使して太平洋戦争を戦い抜いた、伝説の撃墜王であった。

 

 一方、技術者たちも負けてはいなかった。ノックダウン方式の組み立て。必要な治具の開発。初めて挑むジェットエンジンの理解と組み上げ。すべてにおいて忍耐づよく、少しずつ着実に成果を上げていくその姿に、アメリカ側がリスペクトを始めるのであった。

 

 

 その日、大野はいつものようにロッキード社の課長・ペニントンと一緒にクルマで名古屋港へと向かっていた。ペニントンが運転するフォードの53年型。大きなステーションワゴンだった。

 

 ペニントンは名門スタンフォード大学で航空力学を修めたエリートだった。クルマのなかで、ペニントンはよく戦争の話をした。彼は徴兵で米国陸軍歩兵師団に入隊し、イタリア侵攻の最前線で戦った。シチリア島のパレルモ上陸作戦では、米軍内の日系二世部隊と合流。そのときに日系人の気概や情感に触れて大の日本びいきとなった。そんな話をしてくれるのである。大野は日増しにこの温和なエリート課長を好きになっていった。

 

 

 農道を走っていたクルマが、突然止まった。

 「オーマイガッ」

 ペニントンがつぶやいた。ガス欠である。しかし幸運なことに、約100m先にガソリンスタンドの看板が見える。そこでふたりはクルマを降りて、スタンドまで押していくことにした。

 

 ガソリンは、手で汲み上げる時代だった。漏斗を使ってタンクにガソリンを入れ、ペニントンがイグニッションキーを回した。しかし、エンジンは無音。動かない。次はチョークレバーを引いて、キーを回す。かからない。

 「きっとエンジンにガソリンが届いてないんだ」

 ペニントンは言った。

 「よし、エアクリーナーを外して直接、入れてみよう」

 そう言ってベニントンはエアクリーナーボックスを外し、オイルポッドにガソリンを注ぐよう大野に指示した。

 

 田舎のガソリンスタンドだった。店員などいるはずもなく、農家と兼業の店主は精算を済ますと、さっさとウラの畑に向かい農作業に戻っていた。

 

 よく晴れた、うららかな昼下がりだった。

 大野は指示されたとおりに、オイルポッドにガソリンを注ぐ。ペニントンがイグニッションキーを回す。その瞬間だった。ボンッと音がした。同時に大野は油をかぶった。その油には火がついていた。

 

 

つづく

 

 


 

<第47話の予告>

1960年。日本は騒然としていた。日米安全保障条約の改定をめぐり、大学生と市民が手を携えて大規模な反対運動を展開していた。その年、大野芳男はBOAC(英国海外航空=現・英国航空)に就職。米軍の『キャンプGIFU』から、埼玉県入間市の米軍基地『ジョンソン・エア・ベース』で働いた後の、就職だった。

 


 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

『MARY QUANT』マリー・クワント著 野沢佳織訳 晶文社

『スウィンギング・シックスティーズ』ブルース・インターアクションズ刊

『ザ・ストリートスタイル』高村是州著 グラフィック社刊

 

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