びよう道 vol.2 DaB・八木岡聡さん 〜大切なのは、自分しかできないことを探し続けること〜

八木岡聡 書

 

美容室でも待遇や休日が大切と言われる時代。もちろんそれも大切ですが、美容人生のどこかでは“心も体も美容でいっぱい”という時期があってもよいかもしれません。

 

そこで、地道で壮大な鍛錬の道を歩んできた“美容の哲人”に、修業時代に一人前になったと思った瞬間や美容の哲学などそれぞれの美容の道「びよう道(みち)」について語っていただく連載がスタート。

 

第2回目は、人気店DaBのオーナーであり、現役のデザイナーでもある八木岡聡さん。「ヘアデザイナー」という呼び名と概念を生み出し、「ツーブロック」などの新しいデザインをクリエイトするなど、日本オリジナルの美容をつくってきた一人です。

 

今回はそんな八木岡さんが歩んできた「びよう道」と、若手美容師に向けたメッセージをいただきました。デザインに興味があるかた必見です。

 


 

情報が少ない時代、「自分が一番」と信じて疑わなかった

 

 

僕は東京タワーと同い年なんです。古きよき昭和の時代に育ちました。床屋に通っていたので、美容室で髪を切ったことはありませんでした。

 

職業を考えていたころ、自分で何かを生み出す仕事に就きたいと思っていました。とりあえず代々木駅で降りて、新宿まで歩きながらいろいろ探してみようと考え、3つの専門学校の願書をもらって、それを眺めていたんです。その3つの専門学校とは、文化服装学院と服部栄養専門学校、そして山野美容専門学校。自分の中には、パティシエやファッションデザイナーという選択肢もあったんですよ。

 

美容師という仕事を選んだのは、頑張ればその道の一流になることができ、自分でつくったものが評価され、やればやるほど報酬を得られると思ったから。それに、努力を裏切らない職人的な部分もあるように見えたんです。

 

専門学校卒業後は、SHIMAに入りました。ちょうど吉祥寺に出店したばかりで、ものすごく繁盛店でした。当時の美容師はみんな職人的でしたが、嶋先生は「センス」を大切にする、僕にとって特別な存在でした。

 

僕は自分が決めた仕事は、誰よりも一生懸命やると決めていたので、誰よりも練習して技術を習得していきました。「一人前になったのはいつですか?」と聞かれたら、僕は「最初から」って答えますね。ようするに、キャリアと共に「一人前」は変わるということです。

 

シャンプーをしていたときは、自分は日本で一番上手い、ワインディングも誰よりも速くキレイに巻けるし、ほかの技術も同じように考えていました。美容の技術がまだ荒削りな時代だったし、情報が少ないことも、僕にとってはよかったのかもしれない。世の中には自分より上手い人がたくさんいるとわかったら、嫉妬とか諦めなどの感情が沸き起こっていたかもしれないですしね。

 

>海外のコピーではなく日本オリジナルの美容をつくりたかった

 

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