PEEK-A-BOO川島文夫 〜飢餓感の、地図。〜【GENERATION】後編  雑誌リクエストQJ2003年3月号より

イノベーションへの道

 

 

配属されたのは、ロンドンの中心部・ニューボンドストリートのサロンである。晴れてスタイリストとして出社すると、すぐにお客さんが回ってきた。

「すぐに忙しくなりましたよ。サロンのなかで一番忙しくなった」

 

彼は入社後2年で、トップスタイリストに昇格した。さらにそこから1年で、アーティスティック・ディレクター。彼は驚くべきスピードで、『ヴィダル・サスーン』の頂点に昇り詰めるのである。

 

「サロンには、マネージャーとアーティスティック・ディレクターがいるんです。ディレクターの仕事は、チェックすること。どんな頭がサロンから出ていくのか。それはサッスーンのスタイルなのか。サッスーンのカットなのか。チェックしてる」

さらには夜は、勉強会がある。アーティスティック・ディレクターは、その日のスタイリストのカットについてさまざまな意見を述べる。時にはヴィダル・サスーン本人がやってきて、直接語る。自分がシャンプーボーイだったころ、いかに夢を抱きつづけていたか。ヴィダル・サスーンはいつも彼らを励まし、鼓舞していた。

「話し合っていたのは、美容の哲学。われわれはなぜ、美容をやるのか。なぜ、この手法でやっているのか。なんのためにやっているのか」

 

勉強会を終えると、彼らはパブに繰り出した。ビールを飲みながらさらに話し合う。討論する。

「将来の話なんかしない。すべてはどうやったら新しい髪型ができるか。うまい髪型。人と違う髪型。とにかくイノベーション。新しいものを生み出すぞ。オレたちがつくり出すぞ。だってみんな若いんだもん。スタイリスト時代のぼくは22歳。アーティスティック・ディレクターだって25歳」

パブには、イノベーションへと向かう熱気が渦巻いていた。さらに彼らの周囲には、ロンドンという街の空気があった。70年代初頭。音楽も、ファッションも、ほとんどがロンドンから発信され、世界を席巻していた。そんなヴィヴィッドな空気を、彼らは自然に呼吸していた。

 

 

ボックスボブの予感

 

“アーティスティック・ディレクター”となった川島文夫の周囲には、サスーンが誇るビッグネームがたくさんいた。彼らは次々と画期的なスタイルを発表し、世界へ発信していた。

なかでも頂点に君臨していたのは“クリストファー・ブルッカー”。彼は『クラシック・ファイアーフライ』『ザ・ステップ』『スクラメリア』などの作品で、世界を震撼させていた。さらに川島と同期入社の“トレバー・ソルビー”は『ザ・ウェッジ』を発表。“フランコ・スカルパ”は『ザ・ベレー』をつくった。

 

一方、川島文夫も独自の道を模索していた。懸命に、模索していた。研究と実験の日々がつづく。同僚がどんなに華々しく作品を発表しても、彼は焦りはしなかった。その理由は、予感。

 

彼には予感があった。なにかあたらしいものが生まれ出ようとしている予感。自分のなかからイメージが湧き出し、手が、指先が、ハサミが勝手に動き出す予感。身を削るような日々をつづけながら、あるとき彼は興奮し始めた。ハサミが、動きだしたのだ。

ヨーロッパにはそのころ、オリエンタル・ブームが静かに始まっていた。パリでは『KENZO』のショーが注目されていた。彼のハサミはまさに寸分の狂いなく、ショートボブを切り始めた。

 

その作品が、ファッションコラムニストの目に留まった。“マイク・ロバーツ”。彼は英国の日曜紙“サンデータイムズ”に記事を書いていた。マイクは、川島の作品をファッションページに特集した。その写真を“クリストファー・ブルッカー”が見るや、すぐに撮影の準備を開始。同時に川島を呼びだして、告げた。

「フミオ、この作品はすぐに撮影してサスーンのニューコレクションにしよう」

『ボックスボブ』である。川島文夫の名前は、世界を駈けた。

1975年。そのとき川島文夫は、まだ26歳だった。

 

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