PEEK-A-BOO川島文夫 〜飢餓感の、地図。〜【GENERATION】後編  雑誌リクエストQJ2003年3月号より

日本へ、帰ろう

 

 

そのころ、日本では議論が沸騰していた。

“サスーンのブラントカットは日本に定着するのか”

 

美容界を二分するような議論。カット派は、雑誌などで紹介されるサスーン・スタイルを懸命に読み、ロンドンで学んだ人々の講習に参加した。聞きかじりの技術に飽き足りなくなった人々は、少しずつロンドンへと向かった。そこに川島文夫がいたのだ。しかも『ボックスボブ』の作者として。

 

日本からやってきた美容師に、川島文夫は教えた。サスーンの哲学を、技術を。

また逆に、日本から訪れた美容師は伝えた。日本の美容界の現状を。その技術を。その情報は、川島に少なからぬ衝撃を与えた。

「ものすごく進歩していると思った。日本の美容界が、8年間でめちゃくちゃ進歩している。おぉ、すごいなぁ、と」

さらに、である。日本の美容師は川島に訴えるのだ。「帰ってきてください」と。「あなたが帰ってきてくれたら、私たちはロンドンまで来なくていい。あなたに教わればいいんだから」

川島のこころは、揺れた。もしかしたら今、日本の美容界は本当にぼくを必要としているのかもしれない。日本に帰れば、今まで考えたり、学んだりしてきたことを、伝えられる。

 

19歳で日本を後にして約8年。その間、一度も日本に帰ることのなかった彼は、決断した。

「日本へ、帰ろう」

 

なぜ、帰ってきたのか。なんのために‥‥。だってあなたは‥‥。

彼がきちんと理由を述べているにも関わらず、私は聞いた。聞きつづけた。ロンドン。サスーン。アーティスティック・ディレクター。いわゆる世界の中心。世界中の美容師が学びにくる、憧れの地。憧れのポジション。そのすべてを捨てて、なぜ‥‥。

日本に、お店を出すためなのか。サスーンの技術を、広めるためなのか。それにしては日本は小さすぎる。せっかく海外へ雄飛して、世界を知って、世界中どこにでも行ける立場を獲得して、なぜ、日本に帰ってこなければならなかったのか。

「うん。確かに‥‥帰れる場所はどこにでもあったんです。ニューヨークにも、パリにも、ミラノにもあった。大げさな言い方ではなく世界中にあった。仕事をする場が、あった。だけど、日本だった。なんか熱気を感じたのかな。世の中が変わりつつある熱気。日本の美容師の情熱」

その熱気のなかで、サスーンの技術を広めていく、と。

「いや、それはない。そんなことは考えてない。もう辞めたら終わりじゃないですか。看板を持って帰るなんて、まったく考えてなかった。ぼくは川島文夫として帰ってきたんです」

1975年12月。真冬の東京へ、彼は帰ってきた。

 

 

いない、いない、ばあ

 

それは突然の嵐、であった。彼が帰国したことを知った雑誌社は取材に殺到。同時に美容メーカーが、ディーラー各社が、次々とやってきた。美容雑誌ではすぐに彼の連載が始まり、メーカーやディーラーは全国で、彼の講習会を計画した。

 

読みかじり、聞きかじりでカットの手法を学んでいた日本の美容師たちは、彼の講習会にあふれた。

それからの約1年半。彼は他のことはまったく考えられないほど、多忙な日々を過ごした。

ところが、である。あるとき彼は雑誌『anan』に依頼され、ショートカットのスタイルを発表する。その発売日の当日から編集部には読者から、つまり女性たちからの問い合わせが殺到したのだ。

「失敗したなぁ、と思ったんです。自分のお店があれば、受け入れてあげることができたのに、と」

そのころから、である。彼は自分のサロンをつくりたい、と思い始める。

「最初はお店を持とうなんて考えてもいなかった。だけど講習活動だけでは限界がある。やっぱりお店がないと発信できないこともある。美容師はやっぱりお店あっての仕事」

 

彼は、動き始めた。

まずは場所。彼の嗅覚は“表参道”を見つけた。当時はまだ『キデイランド』があっただけで、ようやく『ラフォーレ原宿』がオープンし、『モリハナエビル』ができたころ。今の『マクドナルド』の場所は駐車場。『同潤会アパート』もひっそりとしていた。だが、彼は並木道にヨーロッパを感じた。オシャレな香りを見抜いた。

 

『PEEK-A-BOO』。この不思議な名前を、彼は自分の美容室につけた。

意味は「いない・いない・ばぁ」。

 

当時、サロン名はオーナー美容師の名前がそのまま使われるのが常識だった。だがその常識を、彼は嫌った。

「川島文夫の店、というのをつくりたくなかったんです。川島文夫はピーク・ア・ブーの一員だ、と。それに字の感じもいいし、おしゃれだし、意味深いし、取る人によってはいろんな取り方がある。また、自分たちはお客さんをあやしてる、という意味にも取れる」

 

名前が決まると、ロゴの制作は知人の伝を頼った。

“長友啓典”。著名なグラフィック・デザイナー。川島は、その長友啓典にデザインを依頼した。「まだオープンしていないので、お金はありませんが」と、前置きをして。すると長友は快く引き受けてくれたのである。

現在も、古びることなく存在を誇示している『PEEK-A-BOO』のロゴマークは、25年も前に長友啓典が手がけたデザインだった。

さらに、スタッフ。講習活動をつづけてきた彼のもとには、その技術に共鳴するたくさんの若者たちが集まりつつあった。そのなかから彼は7名を選び、オープニングスタッフとして迎えた。

 

こうして『PEEK-A-BOO』はオープンした。

1977年11月3日。それは川島文夫の、29歳の誕生日であった。

 

>自分らしく生きようよ

 

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