40代で独立 生涯現役をめざす生粋の美容師 — THE GENERATION 風と雲の美容室 JUNさん —

 

忘れられない言葉

 

 入社初日、サロンに早めに出勤したJUNは、横手氏が一人で静かに座っているのを目にした。緊張しながら挨拶をすると、「ちょっとシャンプーとブローして」と突然言われ、JUNはそれに従った。

 「すごく緊張しましたけど、田舎でもシャンプーはほめられていたし、とにかく一生懸命やったんですね。僕は当時、見た目が個性的でいかつい感じだったんですけど、ブローが終わったあとに横手さんから言われたんです。『君のハードな見た目は全然いいよ。ただ、それを貫き通したいんだったら優しさのある仕事を誰よりも心がけなさい。そのファッションを変えるつもりがないなら、お客さまに対して大きなギャップを持ちなさい』と。一瞬で目覚めましたね。あ、そうなんだって。そういうのって人から言われてもなかなかピンとこないけど、そのときの環境とかタイミングがよかった。ギャップを持つこと。自分の外見とは対極の、丁寧な仕事。自分はそこで売ればいいんだと」

 この初日にいただいた横手氏の言葉は、PHASEにいた二十一年の中で最も鮮烈だったとJUNは振り返る。常に丁寧で優しい仕事を心がけ、お客さまに一生懸命好かれようと努力できたのは、その言葉を肝に銘じていたからだ。

 この頃のPHASEは、スタッフが約五〇人。全盛期は八〇人ほどいた勢いのある時代だった。上下関係は厳しくて、先輩の言うことは絶対。売上を持っている者が一番。そんな環境の中、一匹狼的な気質を持っていたJUNは、先輩たちから厄介者扱いされるほどのトラブルメーカーだったという。自分の気持ちに嘘をつけず、先輩の言うことに納得できないときは意見した。

 「持つべき優しさの表現がうまくできなかったんです。全スタイリストに呼び出されて、ここにいるのはもう無理だよね?って詰め寄られたこともありました。でも、横手さんだけは信じて守ってくれました。『こいつの正義感や熱量は、俺がいい方向に持っていくから』と。とくに印象的だったのは、『お前は万馬券だ。当たる可能性のほうが限りなく少ないかもしれない。でも、俺はお前の馬券は買う』と言ってくださったこと」

  JUNは感激して、ひたすら真面目に休むことなく働いた。

 先輩たちから「お前は一番大変な奴だから誰よりも早くきて誰よりも遅く帰れ」と言われると、毎朝六時にサロンの鍵を開けて、夜は終電までいて鍵を閉めて帰る生活を何年も繰り返した。

  そんなJUNを、横手氏は全国セミナーのお供として一年間、毎回地方に連れて行ってくれたという。

 「僕、ポジティブバカだったんですよ(笑)。仕事をする上での基本として、何があっても休まない。そこは譲れなくて。だから、横手さんは僕を選んでくれたのかも」

 

生きている限りは美容師をやろうって。

そのビジョンは表参道では描けなかった”

 

 

四〇代からのビジョン

 

 手先が器用で真面目なJUNは、技術テストにはどんどん受かっていった。しかし、先輩からは「もっと精神的に大人になれ」となかなか認めてもらえず、スタイリストデビューを先送りにされていた。それでも、三年でデビューを果たす。それからは、快進撃。顧客をどんどん増やしていった。

  そして七年が経過して三十二歳になり、プライベートでは結婚。二人の子どもにも恵まれたが、仕事は多忙を極めていて育児は全て妻任せだった。しかし妻は常に応援し、支えてくれた。

 人気サロンで十年選手となると、スタッフの育成も大事な仕事のひとつとなる。JUNは後輩の将来を真剣に考えていたが、極論をズバリと言ってしまうキツい先輩だった。

 「お客さまの髪をプロとして扱う以上は、仕事場では適度な緊張感を持っていたほうがいいと思いました。後輩スタッフに対しては、君はここがダメだと傷つくことをはっきり言ったし、トップを狙える場所で働くことの心構えについても教えました。でも、嫌われますよね。みんな若いから理解できないし、ショックで辞めたりして。さすがの僕も、自己嫌悪で帰り際にしょんぼり落ち込んだこともありましたよ」

 心を許していた同期も次々と辞め、その度にJUNは「自分は絶対に辞めない」と踏みとどまり、いつの間にか二〇年も経っていた。

 「“万馬券”という横手さんの言葉を心に刻んでいたし、彼から受けた恩が計り知れなかったので、仇で返すことはできない。むしろ倍返ししたいと、ずっと思っていたんです。受けた教育は、受けた場で発揮したい。だから、PHASEに骨を埋めることを覚悟していました」

 しかし、四〇歳を目前にした頃、JUNは考え始めた。サロンワークに雑誌撮影、セミナー、ヘアショーなど、がむしゃらに仕事をしてきたけれど、自分はこの先どういうスタンスで仕事をしていきたいのか。

 「それで、気づいたんです。僕は何かあってもサロンに戻ってお客さまの前に立つとホッとする。そしたら純粋にサロンでお客さまを綺麗にしたいという気持ちが強くなってきて。撮影は勉強になったけど、旬があるし長くは続けられない。でも、サロンワークはお客さまに対して常に旬でいられる。じゃあ八〇歳を目標設定にして、生きている限りは美容師をやろうって。でも、そのビジョンは表参道で、サロンの従業員という立場では描けなかった」

 ディレクターになっていたJUNは、自分の頑固さで幹部のまとまりを阻害していることも懸念していた。また、父親として育児に関われなかった後ろめたさも感じていた。このままだと、きっと後悔する。

 そんな思いを抱えながら、生涯現役という新たなビジョンを形にするため、JUNは独立を決意する。

 

>二人の子どもの名前から一字ずつ取った

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