ないなら、自分で作ればいい。現場視点で生まれた道具が、世界中で愛されるまで。Y.S .PARK パーク ヤンスーのびよう道

世界を渡り歩いて、見えてきたもの

 

 

そのサロンには数年お世話になり、いよいよ僕はロンドンで働くことにしました。もともと海外へは行ってみたいと思っていたけれど、他の国のことはあまりわからないし、まずは憧れの場所であるロンドンで働きたいなと。当時は、日本から海外へ渡って働く美容師はまだ珍しい時代。でも、比較的雇ってもらいやすい頃でもあって、渡英してオーディションを受け、スタイリストとして現地のサロンに入社することができました。

 

ロンドンでの生活は楽しかったですね。僕は韓国人2世だからこの名前なんですが、名前のおかげで海外でもはじめから違和感なく受け入れてもらえたように感じます。

向こうのサロンはやはり徹底した分業制。スタイリストはカットとブロー、仕上げまでを担当し、ティンター(カラーリスト)の仕事には一切立ち入りません。自分の担当が終われば、時間が空いても誰かを手伝うことはない。それが当たり前の文化でした。でも、僕は何もしないでいるのが性に合わなくて、ティンターの仕事を手伝っていたんです。すると最初は、「レシピを盗むつもりじゃないか」と警戒されました。僕自身はそんなつもりもないし、そう思われているなんて全然気づいていなかったんですけど(笑)。カラー剤の配合も暗号のように書かれていて、終わるとカップまで洗われてしまう。「なんで洗っちゃうんだろう、僕が洗うのにな」と不思議に思っていました(笑)。それでも構わず手伝い続けていたら、「この人は盗もうとしているわけじゃない」とわかってくれたんでしょうね。「これとこれを混ぜて」と、少しずつ配合を教えてもらえるようになりました。

ほかのスタイリストからは、「なんでティンターの仕事まで手伝っているんだ」と不思議がられました。でも、何もしないでいるくらいなら、手伝ったほうがいい。僕はただ、そう思っていただけなんです。

 

 

そのおかげで、気づけばカラーの技術まで身についていました。覚えようと思って覚えたわけではなく、自然と覚えてしまったんです。そのうち、ティンターが忙しそうにしていると、お客さんのほうから「あなた、空いているなら染めてよ」と声をかけられるようになって(笑)。気づけば、ティンターとして施術をすることも増えていきました。分業制のサロンですから、本来ならそんなことは絶対にあり得ないんですけどね。

 

ロンドンには1年半ほどいて、その後は声をかけてもらい、パリへ渡りました。当時は東洋人の美容師自体が珍しかったので、面白がられてショーに出させてもらったり、いろいろな経験をさせてもらいましたね。そしてご縁があって、今度はカナダ・バンクーバーの美容室で働くことになります。でも、当時のバンクーバーは僕には少し田舎すぎました(笑)。お客さんの多くが林業や漁業に携わる方たちで、普段ほとんど人と話す機会がないから、人恋しくて美容室に来る。なんか、そんな空気だったんです。「これではファッションにならないな」と感じて、次はニューヨークへ行こうと考えていました。

 

 

でも、そのとき、ふと気づいたんです。

 

カナダは移民の国ですから、サロンでは8カ国語くらいが飛び交い、本当に様々な国籍の美容師が働いていました。パリで働き、イギリスで働き、次はドイツへ――そんなふうに世界中を渡り歩いてきた人たちもたくさん。

もちろん、みんな経験は豊富です。でも、僕にはそれってなんだか評論家のように見えたんのですよね。それに、ただ各国を渡り歩くだけでは、それは放浪にすぎない。

「じゃあ、お前は何者なんだ」と問われても、自分を語れるものがない。いろいろな国を知っているからこそ、逆に角が取れてしまって、その人らしさも、つくるヘアも、だんだん個性を失っていくように見えました。

その光景を見て「ああ、このままじゃヤバいな」と強く思ったんです。

僕も放浪を続ける前に、日本へ帰ろう。そして自分の店をつくろう。そう決めたんです。

 

>コーナーで一気に抜く。その発想が世界基準のコームを生んだ

 

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